《 守貞謾稿とは 》
 『守貞謾稿もりさだまんこう 』は、江戸時代の一種の百科事典とも評される貴重な文献で、著者・ 喜田川きたがわ守貞もりさだによって書かれました。この文献は、稿本のまま江戸時代には刊行されず、明治時代になってから翻刻されました。
 著者の守貞は「専ら民間の雑事を録して子孫に遺す」との言葉通り、広範な領域にわたる内容を記しています。具体的には、生業、遊戯、年中行事、食物などの多彩な分野について、約700項目にも及ぶ詳細な解説と、1600点にも及ぶ付図が収録されています。
 守貞は文化7(1810)年(今から215年前)の浪華なにわ(大坂)生まれと自書していますが、生涯についての詳しい記録は少なく、没年も不詳です。初め石原姓で、天保11(1840)年(今から185年前)に江戸に移り、北川氏を継ぎました。30歳の時に大坂から江戸に移住したと自書しており、彼の文献には三都、すなわち京坂(京都、大坂)と江戸の相違点についても多く触れられています。ただし京坂については、「京坂と誌すものも専ら大阪のこと」とも述べています。
 書中には、多くの余白や白紙も見られます。これについて守貞は、「往々白紙を交へ綴るものは、しるさんと欲することありて、いまだその正を得ざるもの。追書の料に備ふ」と、後に判ったことなどの追記のためであると述べ、事実、余白や欄外への追記が見られます。
 『守貞謾稿』は、天保8(1837)年(今から188年前)の守貞27歳の時から書き始められました。16年後の嘉永6(1853)年(今から172年前)の日付で「概略」とする序文が書かれ、その中で筆を置く(櫃に納め)としましたが、それ以降も追書や追考が行われ、慶応3(1867)年(今から158年前)5月に筆を置いた(蔵蓄す)との記述があります。その時守貞57歳で、30年にわたって執筆が続けられたことになります。守貞の、三都の比較をも含めた詳細な観察と記述は、当時の庶民生活や文化を理解するための重要な資料となっています。