昼夜兼行
ちゅうやけんこう
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作家
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作品
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【堺事件】
入田村は夏から秋に掛けて時疫の流行する土地である。八月になって川谷、横田、土居の三人が発熱した。土居の妻は香美郡夜須村(かがみごおりやすむら)から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、
僅かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。この二人は次第に恢復に向ったのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期として病死した。
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【文章】
来月はまた同じ雑誌に残りの半分を書かなければならぬ。今月ももう七日とすると、来月号の締切り日は――弔辞などを書いている場合ではない。昼夜兼行に勉強しても、元来仕事に
手間のかかる彼には出来上るかどうか疑問である。保吉はいよいよ弔辞に対する忌いましさを感じ出した。
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【朝】
此人達は大小を指して殿様の行列の後に踉いて歩いた。勤王佐幕の喧しい争闘の時には昼夜兼行
で浜町の上屋敷に上訴に出かけて行つたこともあつた。維新の際には、若者達の出陣した後を守つて、其処此処の番所を固めた。
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【夜明け前 第二部上】
この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓一揆で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で
早駕籠を急がせたということをも知った。
「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ。」
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【織田信長】
信長は京都、堺を見物していたが、雨降りの払暁、にわかに出立、昼夜兼行二十七里の
山径をブッとばして帰城した。この理由も、家来の誰にも分らない。ひきずり廻され、アッと驚かされてばかりいる家来どもにも、ウチの大将は偉いのか、半キチガイの乱暴者にすぎないのか、信長が三十になっても、まだ確たる見当はつかないのだ。
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【舞じたく】
「舞じたく」は、平常から何かの折に一度描いて見たいと思つて居ましたが、九月十日祇園新地の歌蝶さんを訪ね大嘉の舞妓を紹介して貰ひ、二度ばかり写生して大急ぎで取掛りましたが、四人の人物を描くので大分手間取り、半月ばかりは毎夜一時間しか寝ません。昼夜兼行で七日の午後四時に漸く描き上げました位ですから、自分では何ができたか夢中でした。(談)
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【坑夫の子】
発電所の掘鑿は進んだ。今はもう水面下五十尺に及んだ。
三台のポムプは、昼夜間断なくモーターを焼く程働き続けていた。
掘鑿の坑夫は、今や昼夜兼行であった。
午前五時、午前九時、正午十二時、午後三時、午後六時には取入口から水路、発電所、堰堤と、各所から凄じい発破の轟音が起った。沢庵漬の重石程な岩石の破片が数町離れた農家の屋根を抜けて、囲炉裏へ飛び込んだ。
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【夫人探索】
「百万円あったら、ああしよう……こうしよう」
と空想していた青年中村芳夫は、思いもかけぬ伯母の遺産を受け継いで一躍百万長者になった。
芳夫は早速数万円を投じて素破らしい邸宅を建てた。そこに美姫と、美酒と、山海の珍味を並べて、友達を集めて昼夜兼行の豪遊をこころみたために、百万円は瞬く間に無くなって、
些なからぬ借財さえ出来た。その抵当に邸宅を取られた彼は、再びもとの通りの無一物になってしまった。
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Last updated : 2025/09/19