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■ Wikipediaによる解説 ■
多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国に設置された城である。
宮城県多賀城市市川字城前ほかに位置し、陸奥国府や鎮守府として機能した。現在、国の特別史跡に指定されている。
奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で762年(天平宝字6年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀11年)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観11年)の大地震による倒壊まで、第4期は869年 - 10世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
宮城県多賀城市市川字城前ほかに位置し、陸奥国府や鎮守府として機能した。現在、国の特別史跡に指定されている。
多賀城
(宮城県) |
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築城年 | 724年(神亀元年) |
指定文化財 | 特別史跡 |
位置 | 北緯38度18分24秒/東経140度59分18秒 |
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
[多賀城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2013年12月4日 (水) 00:46 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔多賀城〕日本・宮城県
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