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久保田城
日本・秋田県

久保田城(くぼたじょう)・秋田県
  Wikipediaによる解説
 久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園近辺)にあった城である。
久保田城
(秋田県)
別名 矢留城、葛根城、秋田城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 佐竹義宣
築城年 1604年(慶長9年)
主な城主 佐竹氏
廃城年 1880年(明治13年)
遺構 土塁、堀、門、番所
指定文化財 秋田市文化財(御物頭御番所)
再建造物 本丸新兵具隅櫓、本丸表門
位置 北緯39度43分24.53秒/東経140度7分23.67秒
 久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれる。江戸時代後期の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城であり、今日では「久保田城」の方が一般的である。
 雄物川の支流仁別川左岸、程野村窪田[1]にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城で、石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が居なかったともされる(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している)。いずれにせよ山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。
 1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸のあった一帯は千秋公園となり、秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館などが整備されている。建造物としては、前述の大火を逃れかつ解体も移築もされなかった御物頭御番所[4]が現存し、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されている。
[久保田城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年1月11日 (土) 06:00 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔久保田城〕日本・秋田県



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Last updated : 2024/06/29