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■ Wikipediaによる解説 ■
有子山城(ありこやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石にある山城。「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。
天正2年(1574年)、山名祐豊が築城した。六分一殿として知られる山名氏は元来此隅山城を居城としていたが、永禄12年(1569年)、織田信長派配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃を受け落城したため、新たに有子山に城が築かれた。
落城した此隅山が「子盗み」を連想させることから、別の名前であったこの城を「有り子」と名付けられたと言われる。山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近は天守(詰の城)とされ、山麓に平常時住まいする居館および郭(但馬守護所)がもうけられた。
しかし、天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城した。
以後、豊臣時代は前野長康、小出吉政らが城主となる。
関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館および郭を出石城と名付け、天守部分の狭義の有子山城を廃した。
有子山城
(兵庫県) |
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別名 | 有子城、高城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
築城主 | 山名祐豊 |
築城年 | 天正2年(1574年) |
主な城主 | 山名氏、前野氏、小出氏 |
廃城年 | 慶長9年(1604年) |
遺構 | 石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯35度27分19.61秒/東経134度52分41.23秒 |
落城した此隅山が「子盗み」を連想させることから、別の名前であったこの城を「有り子」と名付けられたと言われる。山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近は天守(詰の城)とされ、山麓に平常時住まいする居館および郭(但馬守護所)がもうけられた。
しかし、天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城した。
以後、豊臣時代は前野長康、小出吉政らが城主となる。
関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館および郭を出石城と名付け、天守部分の狭義の有子山城を廃した。
[有子山城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2013年9月15日 (日) 08:48 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
(2013年9月15日 (日) 08:48 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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