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三木城
日本・兵庫県

三木城(みきじょう)・兵庫県
  Wikipediaによる解説
 三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。
三木城
(兵庫県)
別名 釜山城・別所城
城郭構造 平山城、丘城
天守構造 不明(天守と称される土地あり)
築城主 別所則治
築城年 長享2年(1492年)前後
主な改修者 前野長康、中川秀政
主な城主 別所氏、豊臣秀吉配下武将
廃城年 元和元年(1615年)
遺構 曲輪、土塁、空堀、井戸、天守台等
指定文化財 なし
再建造物 模擬城壁
位置 北緯34度47分59.537秒/東経134度59分16.307秒
 城跡は美嚢川の南岸の台地にあり、明石の北約19キロメートル、姫路の東約31キロメートルの地にあり、それほど肥沃の土地ではなかったが、京都-有馬は古くから整備された交通の要所(湯山街道)に築城された。
 天正6年(1578年)から2年(20ヵ月)に渡って、織田方の羽柴秀吉と別所長治との間で兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)を含めて、激しい攻城戦が繰り広げられたことで知られている。この三木合戦の際には神吉城(印南郡)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城が支城として別所方に従った。
 本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っている。公園内には長治の辞世「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」の歌碑や、城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」、そして近年立てられた長治の像がある。 
[三木城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年4月7日 (月) 04:34 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔三木城〕日本・兵庫県



Last updated : 2025/09/19