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水戸城
日本・茨城県

水戸城(みとじょう)・茨城県
  Wikipediaによる解説
 水戸城(みとじょう)は、常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市三の丸)に立地した城である。
 江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城であった。茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。
水戸城
(茨城県)
別名 馬場城、水府城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
(御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再)非現存)
築城主 馬場資幹
築城年 建久年間(1190年 - 1198年)
主な改修者 佐竹義宣、徳川頼房
主な城主 大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 門1棟・藩校、土塁、空堀
指定文化財 茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
位置 北緯36度22分30.54秒/東経140度28分44.17秒
 水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったようである。
 江戸時代の櫓は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。天守は建造されず、3重5階建ての御三階櫓があった。
 御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。また、三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存している。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されている。
 現在の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしている。
 本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていたが、明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路(県道232号市毛水戸線)として、本丸と二の丸の間の堀は鉄道(JR水郡線)として転用された。
[水戸城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2013年9月11日 (水) 09:51 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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Last updated : 2024/06/29