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佐倉城
日本・千葉県

佐倉城(さくらじょう)・千葉県
  Wikipediaによる解説
 佐倉城(さくらじょう)は、千葉県佐倉市城内町にあった近世の日本の城である。
佐倉城
(千葉県)
別名 鹿島城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 御三階櫓(独立式層塔型3重4階 1616年 非現存)
築城主 鹿島親幹
築城年 天文年間か
主な改修者 千葉邦胤、土井利勝
主な城主 鹿島親幹、千葉邦胤、土井利勝、堀田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 堀、土塁
指定文化財 佐倉市史跡
位置 北緯35度43分19.16秒/東経140度13分0.18秒
 佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[1]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
 1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。
 城郭は比較的質素で石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、川越城や古河城などの譜代各藩の城にみられた。
 しかし明治維新後に廃城令により建物を撤去。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となったため、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在は跡地は佐倉城址公園として整備されており、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っている。
[佐倉城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年4月13日 (日) 09:39 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔佐倉城〕日本・千葉県



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Last updated : 2024/06/29