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津山城
日本・岡山県

津山城(つやまじょう)・岡山県
  Wikipediaによる解説
 津山城(つやまじょう)は岡山県津山市山下にあった城。別名・鶴山城(かくざんじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
津山城
(岡山県)
別名 鶴山城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 独立式層塔型4重5階(非現存)
築城主 山名忠政
築城年 嘉吉年間(1441年~1444年)
主な改修者 森忠政
主な城主 山名氏、森氏、松平氏
廃城年 明治6年(1873年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 備中櫓、塀
位置 北緯35度3分45.97秒/東経134度0分17.83秒
 城郭の形式は梯郭式平山城。日本三大平山城のひとつ。 津山盆地の中央部に位置する。城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。
 天守は破風を持たない4重5階の独立型層塔形式で、小倉城の天守を模して造られたともいわれているが、これに関してひとつの伝承がある。小倉城の天守の評判を聞いた森忠政が築城にあたって小倉城に家臣を派遣したが、家臣が現地を検分していたところを怪しまれ捕る事態となった。当時の常識なら打ち首の上津山藩に厳重抗議をしてもおかしくないが、話を聞いた細川忠興は好きなだけ調査させ図面まで手土産に持たせたという話が伝わっている。また、津山城天守最上階には小倉藩細川家から贈られた西洋風の鐘が明治期まで釣られていた。天守の巨大さゆえに幕府に目をつけられ、忠政は4重目の瓦を破棄し「あれは庇(ひさし)であって4重である」と言い切り難を逃れたと伝えられている。
 往時は外郭を含めると77棟の櫓を持ち、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ櫓の多さであったが、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなっている。
[津山城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年2月10日 (月) 09:19 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔津山城〕日本・岡山県



Last updated : 2025/09/19