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■ Wikipediaによる解説 ■
鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城である。鹿児島では一般的に古くから別名「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。
城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っている。その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。
明治6年頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
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鹿児島城
(鹿児島県) |
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|---|---|
| 別名 | 鶴丸城 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 島津家久 |
| 築城年 | 慶長7年(1602年) |
| 主な改修者 | 島津吉貴 |
| 主な城主 | 島津氏 |
| 廃城年 | 明治5年(1872年) |
| 遺構 | 石垣、堀、石橋 |
| 指定文化財 | 鹿児島県史跡 |
| 位置 | 北緯31度35分53.7秒/東経130度33分15.89秒 |
城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っている。その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。
明治6年頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
[鹿児島城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年4月8日 (火) 08:00 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
(2014年4月8日 (火) 08:00 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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