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 原民喜「夏の花」  
 永井隆「長崎の鐘」  
 原民喜「長崎の鐘」 

長崎の鐘
= はら 民喜たみき =

 はら 民喜たみき (1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)は、広島で被爆した体験を、詩『原爆小景』や小説『夏の花』などの作品に残した。
 この『長崎の鐘』は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録した「長崎の鐘」を読んで表したもの。  
永井隆「長崎の鐘」を読む  
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長崎の鐘


原民喜


 No more Hiroshima! これは二度ともう広島の惨禍を繰返すな、といふ意味なのだらうが、ときどき僕は自分自身にむかつて、かう呟く。広島のことはもう沢山だ。どうして僕は原子爆弾のことばかり書いたり考へたりするのだらう、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ヒロシマ……と。それだのにふと街を歩いてゐて電車のスパークを視ただけでも、僕の思考は真二つに引裂かれ、パツと何もかも地上一切のものを剥ぎとつてしまふ一刹那がすぐ向ふに描かれるのだ……。
 昭和二十年八月九日、広島から四里あまり離れた地点で、僕は防空壕の中にゐた、あの不思議な新兵器のことは、この附近の人にも知れ渡つてゐたが、まだ何といふ呼び方をするのか判らなかつた。壕のなかで一人の青年が僕に話しかけた。
「京都もやられたさうですね、あれに」
 あれに……。あれは今もすぐ頭上に閃くかもしれなかつた。京都も大阪も東京も、そんな地名や場所がまだ存在してゐるのかしらと遭難者である僕はその時考へてゐたものだ。警報が出るたびに、あれは僕たちを脅かしつづけた。
 僕があれの名称を知つたのは八月十六日だつた。新聞の届かない僕たちのところへ、町からやつて来た甥がゲンシと耳なれぬ発音をした。と、ゲンシといふ音から僕はいきなり原始といふイメージが閃いた。あの僕の眼に灼きつけられてゐる赤く爛れたむくむくの死体と黒焦の重傷者の蠢く世界が、何だか原始時代の悪夢のやうにおもへた。ふと全世界がその悪夢の方へづるづる滑り墜ちるのではないかとおもへたものだ。
 しかし、もう戦争は終つてゐたのだ。戦争は終つたのだといふ感動が、それから間もなく僕に「夏の花」を書かせた。あのやうに大きな事柄に直面すると、人間のもつ興奮や誇張感は一応静かに吹きとばされるやうである。僕は自分が体験した八月六日の生々しい惨劇を、それがまだ歪まないうちに、出来るだけ平静に描いたつもりである。
 その後、僕は原子爆弾について他人の作品や記録は全然読む機会がなかつた。が、時の経つに随つて、人間の記憶は歪み表現は膨れ上るから僕と同じ体験をした人たちが、もし後日あの事を書いたり語らうとすると、次第に制し得ぬ興奮や誇張がつけ加はるだらうと考へてゐる。そしてそれはまた実に止むを得ないことでもあるのだ。原子爆弾のことならこれこそは人類の全運命を左右する鍵なのだから、人はどのやうに興奮しても強調してももうこれでいいといふ限度には到達しない。現に僕の観念のなかでも、その後、膨れ上つたものや歪められたものが波状に揺れ返り、絶えず見えないところにあつて閃く光線があるやうだ。僕は今度はじめて永井隆氏の「長崎の鐘」を読む機会を得た。あの体験記を読んだ直後僕はやはり妙な興奮状態になつた。その夜、電車通を横切らうとすると、何かに躓いて僕はパタンと前へ倒された。僕は惨劇のなかにゐるような気がしたものだ。
 昭和二十年八月九日、僕が壕のなかで縮こまつてゐる時、あれは長崎を訪れたのである。長崎医大の外来診察室であれに見舞はれた永井氏はその時のことをかう書いてゐる。
「目の前にぴかつと閃いた。……私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙にふきとばした。私は大きく目を見開いたまゝ飛ばされていつた。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかゝる。切られるわいと見ているうちにちやりちやりと右半身が切られてしまつた。右の眼の上と耳のあたりが特別大創らしく、生温い血が噴いては頸へ流れ伝わる。痛くはない。目にみえぬ大きな拳骨が空中を暴れ廻る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き廻され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なつてくる。埃つぽい風がいきなり鼻の奥へ突込んできて、息がつまる。私は目をかつと見開いてやはり窓をみていた。外はみるみるうす暗くなつてゆく。ぞうぞうと潮鳴の如く、ごうごうと嵐の如く空気はいちめんに騒ぎ廻り、板切れ、着物、トタン屋根、いろんな物が灰色の空中をぐるぐる舞つている。あたりはやがてひいやりと野分ふく秋の末のように、不思議な索莫さに閉ざされて来た。これは唯ごとではないらしい。」
 そして、その後次々に展回される惨状に対し、この著者は科学者としての眼を次第に働かせて行くのだが、八月十日一枚のビラからあれの正体を知ると、
「私達数名の教室員が今ここにその原子物理学の結晶たる原子爆弾の被害者となつて防空壕の中に倒れておるということ、身を以てその実験台上に乗せられて親しくその状態を観測し得たということ、そして今後の変化を観察し続けるということ、まことに稀有のことでなければならぬ。」と真理探究の本能から勃然として新鮮な興味が湧き上る。それから傷病者の救済に奔走しながら、九月に入ると遽かに原子爆弾症患者が激増して来るが――この辺の状況は広島の場合とほぼ似てゐる――遂に永井氏も前から職業病として持つてゐた原子病が再発して病床に倒れてしまふのである。既にこの著者はあとあまり長くは生きられないことが確定してゐる。が今、死床にあつて、この人は何を人類に訴へ何を叫ばうとしてゐるのだらうか。この書の終りには書いてある。
「人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによつて、自らの運命の存滅の鍵を所持することになつたのだ。……人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾といふものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界にむかつて叫ぶ、戦争をやめよ。」
 もしかすると人類は自分の運命を軽く小さく考へ、原子力の渦に巻き込まれてしまふことがないとも限らない。恐ろしいのは多くの人々がまだ原子力の惨禍をほんとに鋭く感じとることが出来ないといふことだ。僕はこの書物が一冊でも多く人々によつて読まれ、一人でも多く「戦争をやめよ」といふ叫びがおのおのの叫びとなつて反響することを祈る。





底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「近代文学」
   1949年10月号
入力:ジェラスガイ
校正:大野晋
2002年9月20日作成
2003年5月21日修正
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Last updated : 2019/05/16