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江戸の火消ひけし・江戸のまとい

むさしあぶみ
浅井了意あさいりょうい
万治4年〈1661年〉刊
  • 明暦3年1月18日〈1657年3月2日〉 の未の刻(午後1時~3時頃)に、江戸で発生した火災は天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼き、死者は3万から10万ともされる。この大火で焼失した江戸城天守はこれ以降再建されることはなかった。
  • この火災は「明暦の大火」とも呼ばれ、その後の明和の大火(1772年)、文化の大火(1806年)を含めて江戸三大大火と呼ばれるが、明暦の大火における被害は江戸時代最大であったことから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。 明暦の大火 Wikipedia  
  • この大火から4年後の万治4年〈1661年〉、仮名草子作家の 浅井了意あさいりょうい (慶長年間 - 元禄4年〈1691年〉の元旦)は、この火災を「むさしあぶみ」の標題で物語風に描き世に表した。
  • 「むさしあぶみ」では、火災の経過を様々な逸話を交えて描き、死者供養の回向院の建立や復旧作業に至るまでが記される。
  • 炎に追われ逃げ惑う人々と共に多くの「 車長持くるまながもち 」と呼ばれる車輪を下部に取り付けた大型の収納家具が描かれるが、これを持ち出すことによって道がふさがれ混雑をもたらしたため、この火災以後禁止されることとなった。車長持に押しつぶされる人々や、混雑する橋の上で立ち往生し焼ける様も描かれる。また、『かかる火急の中にも盗人は有けり。引すてたる車長持を取て方々へにげゆく』と、打ち捨てられた車長持を盗む輩もいたと記される。
  • この「むさしあぶみ」に描かれる火消しは、各大名への課役として義務づけられた大名火消と呼ばれるもの。この火災の翌年(万治元年〈1658年〉)には、幕府直轄の 定火消じょうびけし が設けられ消防・非常警備の強化が図られた。 まとい を持つ町火消の組織化はこの火災より61年後の享保3年〈1718年〉になるため、纏は描かれていない。
  • ここでは、万治4年〈1661年〉刊の「むさしあぶみ」の全編を見てみます。 
  • 国立国会図書館蔵。
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むさしあぶみ
浅井了意あさいりょうい
「むさしあぶみ」の書き出し 扨も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。
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Last updated : 2022/11/23