概略
余、文化七年庚午六月、浪華に生る。本族石原氏なり。天保十一年庚子九月、東武に来る。時に歳三十一。遂に北川の嗣となり、同八年深川に間居し、黙して居諸を費さんことを患へ、一書を著さんと思ひ、筆を採りて几に対すれども、無学短才、云ふべき所なし。ここにおいて、専ら民間の雑事を録して子孫に遺す。ただ古今の風俗を伝へて、質朴を失せざらんことを欲す。
一、 この冊子、天保八年以来、見聞に随ひ、これを散紙に筆し、後に大略諸類を分ちて数冊とす。故にはなはだ畾紙多く、また往々白紙を交へ綴るものは、誌さんと欲することありて、いまだその正を得ざるもの。追書の料に備ふ。
一、 この書、毎時はなはだ粗密あり。ただ見聞の多寡による。またあるひは大書し、あるひは細書す。必ず例あるにあらず。ただ筆に随すのみ。
一、 古きことには専ら年号を記し、即今の事には多く今世と書く。しかもまた、古今を記さざるもの、多くは今事に係るといへども、また往事なきにあらず。事体に拠つてこれを察せよ。
一、 京師と浪華を合し略すもの、洛津などの字を用ふる人多し。今俗に順び京坂と書す。(けだし京坂と書するもの、専ら五畿および近国に係り、江戸と書するもまた山東諸国に及ぶことあり。皆事に応じてこれを察せよ。)
一、 余、大坂に住すこと三十年、江戸に移りて後今に至り十有四年、あら/\両地の俗を知る。しかれどもいまだ京師に住せざれば、帝都の俗に委しからず。京坂万事相似たりといへども、また異なることなきにあらず。京坂と誌すもの専ら大坂を証とすれば、京師のことと異なることあらんか。
一、 婦女の字、婦は眉を剃り歯を黒めたるおんな、女は眉をいまだ剃らざる皓歯のむすめのこととす。しかもまた、弾婦美女の類、年齢にかかはらず通用するもあり。文によつてこれを察せよ。
一、 前に云へるごとく、散紙に書き蓄へて後に集冊す。この故に前日すでに書けることをも忘却して再書し、あるひはいまだ誌さざるをも前にすでにこれを記せりと思ひ誤りて、必用のことをも書き漏らすこともあるべし。これを訂正せんと欲するに、頃日賈道に復して閑暇乏しく、これに加ふるに、近時に夷舶再航の状ありて、衆心石上に坐するがごとく、これに依つて遂に訂正せず。諸財とともに櫃に納めて、今日川越の親族に託す。庶幾子孫これを訂せよ云爾。
嘉永六年癸丑冬
喜田川舎山述
追書。墨夷来りて恐らくは戦争のことあらんと思ひしに、幕府無事を旨とするにより、その難なし。故に即時、川肥〔越〕よりこれを復して、追書・追考を筆す。故に巻中、癸丑後のことをもこれを誌す。けだし書例なく、ただ余が追書・追考並に墨書す。もし余人筆を加ふことあらば、必ず朱をもつてして、原筆と混ずることなかれと云ふ。
先年閑居の日、徒然を患へこの書を編し、今たま/\これを閲するに、その描きこと、後悔すれども及ばず。 これを廃して渋紙に製せんと欲せしが、またさすが数日を費しぬることなれば、百年の遺笑を思ひながら再び蔵蓄す。
慶応三年卯五月