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上田城
日本・長野県

上田城(うえだじょう)・長野県
  Wikipediaによる解説
 上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった城である。
上田城
(長野県)
別名 尼ヶ淵城 真田城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
築城主 真田昌幸
築城年 1583年(天正11年)
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
指定文化財 長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓)
国の史跡
再建造物
位置 北緯36度24分14.12秒/東経138度14分41.26秒
 上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。
 上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城である。真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名である。第二次上田合戦後、関ヶ原の合戦にて、真田昌幸、信繁が属した西軍が負けたため、上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた。江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建した。仙石忠政により、本丸は櫓7棟、櫓門2棟、それらをつなぐ塀が再建され、二の丸にも櫓や櫓門を再建するための櫓台なども再建されたが、仙石忠政の突然の病死により再建は中断され、そのまま幕末を迎えた。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。。
[上田城] - 引用した Wikipedia の情報は更新されている場合があります。
(2014年3月21日 (金) 11:09 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
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〔上田城〕日本・長野県



Last updated : 2025/09/19