= 隅田川の渡し =
小説・随筆などに見る隅田川と渡し

  • 隅田川の渡しすみだがわのわたしは、隅田川にかつて存在した渡し船・渡船場の総称。(隅田川は、東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川)
  • 隅田川には、長らく奥州や総州への街道筋に合わせていくつかの渡しが存在した。
  • 戦国時代以降に徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
  • 江戸時代を通じて渡しは増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できる。
  • 関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
  • 《参考》
    • 明治10年〈1878年〉と、明治17年〈1884年〉に出版された、東京の様々な場所などを紹介する印刷物に書かれた「渡し場」。(隅田川とは限らない)
    • 明治後期の印刷とされる、枕橋の渡し(山の宿の渡し)の絵葉書。ボストン美術館の説明によれば、この渡しは1907年〈明治40年〉に廃止されたとされる。奥に浅草寺が写る。
  • ここでは、明治から昭和初期に書かれた小説や随筆の中の隅田川と渡しを見てみる。
《小説・随筆などに見る隅田川と渡し》
幸田露伴「水の東京」青空文庫  

『水の東京』は、1901年〈明治34年〉に発表された。

幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)
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水の東京


幸田露伴



 上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時むかしより近き頃まで何人なんびともこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、しおのさしひきするところ、船の上り下りするところ、一すじ条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時むかしの月をいひけん、今は八百八町に家※(二の字点、1-2-22)立ちつゞきて四里四方に門※(二の字点、1-2-22)相望めば、東京の月はまことに家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。東は三枚洲さんまいず澪標みおつくし遥に霞むかたより、満潮の潮に乗りてさし上る月の、西は芝高輪白金の森影淡きあたりに落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、かくの如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに当りては、如何で脱漏錯誤のなきを必するを得ん。たゞ大南風に渡船わたしのぐらつくをも怖るゝ如き船嫌ひの人※(二の字点、1-2-22)の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、いささかこの大都の水上の一般を示さんとするに過ぎねば、もとより水上に詳しき人※(二の字点、1-2-22)のためにするにはあらず。るものいたづらにその備はらざるを責むるなかれ。
 東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川あかばねがわと汐留堀とのほか幾許いくばくもなし。されば東京の水をかたらんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるのえりなり。先づ綱を挙ぐれば網の細目はおのづから挙がり、先づ領を挙ぐれば衣の裙裾すそはおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後にようやくその他の諸流に及ぼしてついに海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ水経すいけいの百川を説かんとして先づ黄河を説くが如し、説述の次第おのづからかくの如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横にれて枝路に入ること多きは、これまた黄序こうじよに言ひけん如く、伊洛いらくを談ずるものは必ず熊外ゆうがいを連ね、漆沮しつしよを語るものは遂に荊岐けいぎに及ぶ、また自然の偶属ぐうぞくにして半離すべからざるものなればなり。
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田すだを流るゝをて呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源みなもとは秋の日など隅田堤より遠く西のかたに青み渡りて見ゆる秩父郡の山※(二の字点、1-2-22)の間にて、大滝村といへるがこの川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしゝ『秩父紀行』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島のわたしあたりよりなり。
○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事僅少わずかにして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望ながめ好き向島堤の続きにして、千住駅をてこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。豊島の渡より川はかへつて西南に向つて流れて、やがて
石神川しやくしがわを収めてまた東に向つて去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、錦繍きんしゆうの眺め、人をして車を停めてそぞろに愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。この川舟楫しゆうしゆうの利便はそなへざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔いにしえは水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、この川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石剣の如きもその一なり。
尾久おぐの渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。この辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は卑湿ひしゆうの地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の新蘆しんろ栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、川面かわもの眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。すずきその他の川魚を漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟をうかめて遊ぶも少からず。蚊さへなくば夏の夕の月あかき時なんどは、ことに川中に一杯をみて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りてただちにまた本流に合する一きよあり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、荷足にたり、小舟の類の帆を張り艫櫂ろかいを使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱あつさを川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側にはん樹立こだちの連なれるあたりの樹蔭に船をもやひて遊ぶが多し。橋の上下すこしの間は両岸とも材木問屋多ければ、いかだの岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭のけむり、機関の響、いと勇ましくもはしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向つて川の流るゝこと少許しばしにして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に
○塩入村の茅舎竹籬ぼうしやちくりを見、左に蘆葭ろかの茂れるを見ながら一折して、終に南に向つて去る。このあたりは河水東西に流れて両岸の地もまた幽寂ゆうじやく空疎なれば、三秋月を賞するのところとして最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山におけるより水におけるをすぐれりとす。月東山を離るといふの句は詞客しかくの套語となれりといへども、実は水に近き楼台ろうだいの先づ清輝を看るを得るの多趣なるにかず。また止水におけるは流水におけるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上とこの川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。さてまた同じ流水にても、南北の流れにおけるは東西の流れにおけるのをかしきに如かず。南北の流れにては月の出づるところ東岸に迫られて妙ならねど、東西の流れにては月はただちに河水の水面よりさし昇るところなれば、見渡す眺めも広※(二の字点、1-2-22)として、浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきら/\と輝くなど、いふにいはれぬ趣きあり。ことにこの辺りは川幅もひろくかつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りてきしり出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるをる、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、加之しかも月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もしこころみに仲秋船をうかめてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も平生ひごろの河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝをうらむるならん。いにしえより文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春ごしゆんなんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通ずべく、眺めもこれといふところはなけれどもまた棄てがたき節なきにあらず。その上流は小菅より浮塚に至りて、なほ遠く荒川より出で、こゝにてまた荒川の下流の隅田川には入るなり。上流には支流ありて中川にも通ずるをもて船の往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おのづから小幀しようとうの画を為す。
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽せんざいの訛にして、往時むかし御前栽畑ありし地なりしを以てなるべし。
○鐘が淵は紡績会社の地先ちさきにして、隅田綾瀬の二水相会するところのやゝ下の方をいふ。往時むかし普門院といふ寺の鐘この淵に沈みたればこの名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、けだし恐らくは信ずるに足らざるの談ならん。およそ鐘が淵と名づくるの深潭諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以てのみ名づけんや。予の考をもてすれば鐘が淵は曲尺かねが淵にて、川の形曲尺まがりがねの如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず。こは諸所の同じ名を負へるところの地形を考へて悟るべく、なほまた明かに曲り金ととなふる地名の川沿の地に多く存するをも併せ考ふべし。
○関屋の里は定めてこれと指すべきところなし。鐘が淵附近の地一帯をいふにや、近き人の著しゝ『隅田川叢誌』には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の下にまた大川より東に入る渠あり、奥行いと浅けれど紡績会社のために漕運の便を与ふること少なからず。それよりまた下に
○水神の森あり。水神の社地を浮島といひて、洪水にも浸さるゝことなき由をもて名あり。このあたり皆川の東の方は深くして西の方は浅し。水神の森のむかいの方に
○隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に至る汽車のために水運陸運を連絡すといふまでにはあらねど、石炭その他を供給するためいと大なる効をなせり。これより下流は川の深処東より移りて漸く西の岸に沿ひ、有名なる
○真先稲荷前を過ぐる頃は、東は甚だ浅く西は大に深きに至る。石浜神社は小社なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川をひかえて、遥に上は水神の森鐘が淵のあたりより下は長堤十里白くして痕なき花の名所の向島を一望の中に収むるをもて名あり。稲荷より下の方一町ほどにして
○思川といふ潮入りの小溝あれど、船を通ずるに至らねば取り出でゝいふべくもあらぬものなり。思川の南数十歩して
○橋場の渡あり。橋場といふ地名は往時むかし隅田川に架したる大なる橋ありければ呼びならはしたりとぞ。石浜といへるは西岸の此辺ここをさしていへるなるべし。むかし業平の都鳥の歌をみしも此地ここのあたりならんといふ。こゝより下は、左に小野某の小松島園あり、右に小松宮御別邸あり。小松島園より下は少許しようきよの草生地を隔てゝ墨田堤を望む花時の眺めおもしろく、白髯のほこらの森も少しく見ゆ。
○寺島の渡は寺島村なる平作河岸へいさくがしより橋場の方へ渡る渡なり。平作河岸とは大川より左に入りてただちに堤下に至る小渠にへる地をいふ。平作河岸より下流に、また桜組製革場に沿ひて堤下に至るの小渠あり。これより東は今戸、西は寺島の間を流れて河水漸く南に去り、西深く東浅かりし勢変じて東深く西浅きに至る。
○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水ことに深くして、いはゆる
○墨田の長堤もまたただちに水を臨むをもて、陽春三月の頃は水の洋※(二の字点、1-2-22)たると花の灼※(二の字点、1-2-22)たると互に相映発して、絶好の画趣と詩興とを生ず。ことに此辺より吾妻橋上流までの間は府内各学校の生徒ならびに銀行会社の役員等の端艇競争の場となるを以て、春秋の好季には堤上と水面とは共に士女※(「門<眞」、第3水準1-93-54)てんえつして、歓笑の声絶ゆる間もなく湧くに至る。
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中わたしばちゆう最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること半途なかばにして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等のややもすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは
山谷堀さんやぼりにして、その幅甚だ濶からずといへどもただちに日本堤の下に至るをもて、往時むかし吉原通よしわらがよいをなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船ちよきぶねを乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。今もなほ南岸の人家に往時むかしの船宿のおもかげ少しは残れるがなきにあらず。
○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの茂睡もすいの歌の碑は知らぬ人もなく、……の多き文章を嘲つて、待乳山の五丁の碑ぢやアあるめえし、と某先生が戯れたまひしその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を俯視ふしすべくして、月夜の眺望ながめ四季共に妙に、雪のあしたに瓢酒ひさござけを酌んで、詩を吟じ歌を案ぜんはいよ/\妙なり。仙骨あるものは登臨の快を取りて予が言の欺かざるを悟るべし。待乳山の対岸のやゝ下に
三囲みめぐり祠あり。中流より望みてその華表とりいの上半のみ見ゆるに、初めてこれを見る人もすいしてその三囲祠たるを知るべし。この祠の附近よりは川を隔てながら、ことに近※(二の字点、1-2-22)と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、上は柳畑辺より下は三囲祠前の下流十間までの間は有名なる
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客のいとを垂るゝもの甚だ少からず。川はこれより山の宿町、花川戸、小梅町、新小梅町の間を下りて吾妻橋に至るなるが、東岸の方の深かりしは漸く転じて、中流もしくは西の方の深からんとするの勢をなす。新小梅町となかごうとの間、一渠東に入るもの
○枕橋、源森橋げんもりばしの下を過ぎて業平町に至る。この水路は狭けれども深くして、やゝ大なる船を通ずべく、業平町に至りて後左すれば、いはゆる
○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる
○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ南して木場に至る。されば源森川の一路はその関するところ甚だ少からざる重要の一路たり。他日市区改正の成らん暁には、この源森川と押上の六間川(あるいは十間川ともいふ)との間二町ほどの地はうがたれて、二水たゞちに聯絡せらるべきはずなり。もし二水相通ずるに至れば、この川ただちに隅田川と中川とを連ぬることとなりて、加之しかもその距離竪川小名木川に比して甚だ短ければ、人※(二の字点、1-2-22)の便利を感ずること一方ならざるべし、さて枕橋を左に見捨てゝ大川を南に下り
○花川戸への渡場を過ぎ
○吾妻橋の下を経、左に中の郷、右に材木町を見て下れば、水漸く西岸に沿ふて深く東岸の方浅し。遊女の句に名高き
○駒形の駒形堂を右に見、駒形の渡船場を過ぎ、左には長屋ごしに番場の多田の薬師の樹立こだちを望みて下ること少許しばしすれば
厩橋うまやばしに至る。厩橋の下、右岸にはいにしえの米廩の跡なほ存し、唱歌にいはゆる「一番堀から二番堀云※(二の字点、1-2-22)」の小渠数多くありて、渠ごとに皆水門あり。首尾の松はこのあたりに尋ぬべし。猪牙船ちよきぶねの製は既に詳しく知りがたく、小蒸気の煽りのみいたづらに烈しき今日、遊子の旧情やがては詩人の想像にものぼらざるに至るべし。米廩敷地の内の一処に電燈会社拠りて立ち、天にちゆうする烟突をそびえしめて黒烟を揚ぐ。本所側にありては電燈会社対岸の下に当りて東に入るの小渠あり。御蔵橋みくらばしこれに架りて陸軍倉庫の構内に入る。米廩の下、浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり。
○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる
新堀しんぼりにして、栄久町えいきゆうちよう三筋町等に沿ひ、菊屋橋合羽橋等の下に至る。この一条の水路は甚だ狭隘きようあいにしてかつ甚だ不潔なれども、不潔物その他の運搬には重要なる位置を占むること、その不快を極むるところの一路なるをも忌み厭ふにいとまあらずして渠身不相応なる大船の※(二の字点、1-2-22)しばしば出入するに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にしてかわきがたきも、この一水路によりて間接に乾燥せしめらるゝこと幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
三絃堀しやみせんぼりなるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大瀦水地ちよすいちとなるの観を呈す。就中なかんずく御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。されば三味線堀は今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、なほこれを修治拡大して立派なる渠となし、また一路を分岐せしめて、竹町仲徒士町等を経て南の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも衛生上の益は決して尠少せんしようならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天める秋の朝なんど、あるいは黒※(二の字点、1-2-22)と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと※(二の字点、1-2-22)こうごうしくして、さすがに少時しばし塵埃じんあいの舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。
○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところのふところをいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまたことに深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち
○神田川なり。幅はのみひろからぬ川ながら、船の往来のいと多くして、前船後船舳艫じくろふくみ船舷相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて加之しかも遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地として有名なる
○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は
○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、栄橋さかえばし、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の諸橋は架れるなり。材木町、東福田町地先にてこの水路と会する一水は即ち
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、御城おしろ外濠そとぼりより竜閑橋その他諸橋の下を経て来れるものなり。
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋雉子きじ橋下を経てまないた橋下に至り、いはゆる飯田川となりて堀留に窮まり、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上
○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水しじまりて、樹木鬱蒼、幽邃ゆうすい閑雅の佳趣なきにあらず。往時むかし聖堂文人によりて茗渓めいけいと呼ばれたるは即ち此地ここなり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また大概おおよそ旧に依りて存せらるゝを以て、塩谷しおのや宕陰とういん二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒てらかどせいけんが記しゝ往時むかしも今も異りなし。橋の下流少許しばしにして東に入るの一水あり。これを
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流に出づる一水路にして、甚だ重要なる一渠なり。ことにその隅田川と中川とを連結するの中間において、松井町にては南に入りて小名木川に達するの一渠(この一水は中途二岐となりて、その一はただちに南に去つて小名木川に達すれども、他の一は※(二の字点、1-2-22)しばしば曲折して後富川町にて小名木川に会す)を併せ、菊川町にては北辻橋南辻橋の間の横川を貫き、四之橋の東少許のところにてはまた
○天神川と十字をなして会するを以て、その交通往来し得る区域甚だ広く、従つて漕運の功をなすこと甚だ大なり。天神川は亀戸天神祠前に流るゝを以て名づけられたる一水にして、南は砂村より北は請地村うけじむらに至るまでの間を南北に流るゝ一渠にして、丁字形をなして請地にて会する一水は、西中の郷にて堀溜となれど、東は境橋下を過ぎて中川に達する六間川これなり。されば天神川は横川と同じやうなる位置を占めて同じやうなる功をなすといふべし。竪川は是の如き天神川横川等を貫きて加之しかも隅田川と中川とを連結することなれば、他日この川沿岸一帯は工場相隣りするの地となるべし。この竪川の隅田川と相会するところより矢の倉町に至るの渡船をば
○千歳の渡といふ。このあたり川は南東に向つて流れ、水は西岸の方深く、安宅町あたけちよう地先に至つては川の東部に洲をあらはすに及ぶ。
○安宅の渡は、洲の下流、浜町と安宅との間にあり。渡船場の下数町にして
○新大橋あり。川はこゝに至つてまた一転折して南西に向つて流る。新大橋の下ただち
中洲なかずありて川の西部に横たはり、儼として一島をなし、酒楼の類のこゝに家するもの少からず。中洲の対岸一水遠く東に入るものを
○小名木川とす。芭蕉の居を卜せしは即ちこの川の北岸にして、満潮の潮がしらに川角へさし来る水の勢に乗つて照り渡れる月に句を按じ、あるいは五本松あたり、一川の上下に同じ観月の友を思へるなど、皆こゝに居たるよりの風雅のすさびなりけんと想はる。
○万年橋はこの川の口に架れる橋にして、往時むかしは匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋のほとりと永代橋の畔より船を出すを例とし、かつこゝよりするものは帰期あるものと予定し、永代橋よりするものは帰期なきものと予定する習ひなりしといふ。橋より東少許のところに竪川に通ずる小渠あり。なほ東して高橋たかばし及び新高橋下を過ぐれば、扇橋猿江橋の間の横川に会す。なほ東してまざれば天神川と十字を為して、終に中川に会す。
新川しんかわはあたかもこの川に接続するものの如く中川より東南に入るの流なるをもて、なほ東して遠く去れば、利根の分流たる江戸川の妙見島上流に出づ。江戸川はこれを溯つて利根の本流に出づべく、利根川はこれを下つて銚子に至るべし。水路の通ずること是の如くなるを以て、小名木川は実にいとの如き小渠なるにもかゝはらず、荷足行き、伝馬行き、達磨行き、蒸汽船行き、夜※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)艪声檣影ろせいしようえい絶ゆる間なし。小名木川は実に重要なる一流といふべし。今既にこの川一帯の地は工業者の占有するところとなれるが多し、他日の発達測り知るべきなり。小名木川の大川に会するところより下少許にして、また一水の大川より東南に入るあり。
○仙台堀といふはこれにして、あるいは十間川とも呼び、いよ/\東しては二十間川ともいふ。かみはし相生橋亀久橋等の下を経て、木場の北に至り、要橋かなめばし崎川橋下を過ぎて横川に会し、なほ東して石小田新田いしおだしんでん千田新田せんだしんでんの間を通り天神川に会して終る。この川より天神川に出でゝ少しく北し、あるいはまた小名木川より天神川に出でゝ少しく南すれば、東海に入るの一渠を得。これ即ち
○砂村川と称するものにして、砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは無用に似たれども、風潮の都合によりて時に舟夫の便とするところとなることあり。仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の大和橋及び鶴歩橋の架れる一渠その他の小渠は、一※(二の字点、1-2-22)記するにいとまあらざるを以て省く。けだし木場の如きは溝渠縦横、水多くして地少く、一※(二の字点、1-2-22)これを記するあたはざればなり。仙台堀入口より中洲へ渡るの
○中洲の渡船場あり。渡船場の下一町余にしてまた小渠の東南に入るあり。いはゆる
○油堀はこれにして、これもまた仙台堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)中洲の背後より箱崎と蠣殻町との間に存する一水あり、油堀と大川との会するところより下流に豊海橋の下を潜りて西北に入る一水あり。流に由りて溯れば、先づ
○豊海橋湊橋の下を経て
○鎧橋下に至る。鎧橋下の上流、思案橋親父橋下を過ぎて堀留に至る一支、荒布橋あらめばし中橋下を経て同じく堀留に至る。一支に入らずして本流を追ひて上れば、江戸橋下に至り
○日本橋下に至り、終に一石橋いつこくばし下に至りて御濠に出づ。御濠は西の方滝の口に至り、南の方呉服橋八重洲橋鍛冶橋数寄屋橋に至るまで船を通ずべし。豊海橋より一石橋に至るの水路の中、南西にわかれて霊岸島と亀島町との間に去るものは、新亀島橋亀島橋及び高橋の下を下りて本澪ほんみよに入り、兜町地先にて岐れて南西に去るものは、兜橋海運橋久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合す。
○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋あることなし。(後、相生橋成る。)橋下水深く流れ濶くして、遠く海上を望む風景おのづから浩大にして、大河の河口たるにそむかざるの趣致あり。橋の下流、佃島石川島月島の一大島をなして横たはるあり。こはいはゆる三角洲に人為の修築を加へたるものにして、これがために川おのづから分岐して海に入るの勢を生ず。
○三ッ叉の名はこれより起り、一は築地に沿ひて西南に流れ、一は越中島に沿ひて東南に流る。西南に流るゝは即ち本流にして
○本澪と呼ばる。本澪は水深くして大船海舶の来り泊するもの甚だ多し。永代橋より下流は川幅甚だ濶く、かつ上に説けるが如く分岐して二となるを以て、便宜上先づ西流東流の二つに分ちて記すべし。先づ西岸の方より記せば、永代橋より下流幾許ならずして西に入るの一小渠あり、三の橋二の橋一の橋の三ツの橋の下を過ぎて亀島橋下を流るゝ一水に会す。
○大川口の渡はこの小渠の下に当りて、深川と越前堀との間を連結す。渡船場より下、町余にして二水の北西より来るを見る。その右なるは高橋下の流れにして即ち亀島橋下より来るもの、その左なるは即ち
○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、京橋の東炭谷橋白魚橋の下に出で、こゝにて南は真福寺橋下より来る一水と会し、北は兜橋より弾正橋下を経来れる一水と会し、桜橋東にてまた南より来る小渠と会し、遂に中の橋稲荷橋下を過ぎてこゝに来れるなり。この流れより下流、本湊町船松町の間に一水あり。明石町居留地の間を南して新栄橋下の一水に通ず。船松町佃島の間には渡船場あり。明石町の南
○明石橋下の一流は、築地一丁目二丁目三丁目をめぐりて流るゝ釆女うねめ橋万年橋祝橋亀井橋合引橋築地橋軽子橋備前橋小田原橋三の橋等の下の一水に通ずる流れにして、栄橋新栄橋の下を過ぎてこゝに落つるなり。
○南小田原町の南、海軍省用地の北、安芸橋の架れる一水は三の橋の下流にして、三の橋上流より南の方海軍省用地に沿ひて尾張橋下を過ぎ、浜離宮脇より澪に入るの水と通ず。
○浜離宮の北、離宮と海軍省用地との間の一水は前に説きたる如し。別に離宮の西、汐留町との間を流れてただちに海に入るの流れは、土橋難波橋
○新橋蓬莱橋汐先橋の下を流るゝ水の末ともいふべし。
○三十間堀即ち真福寺橋の流れの続きにして、豊倉橋紀国橋豊玉橋朝日橋三原橋木挽橋出雲橋等の下を流るゝ一水は、前の一水と新橋の下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠は御濠に通ずるを以て土橋以西に至るべからざるにはあらねど、地勢高低懸隔するを以て土橋以西には船を通ぜず。汐留堀以南は品川に至るまでの間たゞ一の
○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く幡谷はたがやの方より来るといへども、その漕運の功をなすは瓦斯ガス会社と芝新浜町との間の落口より溯つて金杉橋将監橋芝園橋赤羽根橋中の橋辺までにして、中の橋以上は辛うじて一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島の北の方を、富岡門前町と並行して木場に至り、またその南の方を東して遠く洲崎の遊廓に達するの一渠あり。けだし
○内川といひしはこれか。振鷺亭しんろていが意妓の口に、大河の恋風は浮気な頬をなぐり、内川の旭は眼が覚めてからねむしといひたるも、おもふに古石場町富岡門前町などの間を行くこの一水を指したるなるべし。別に一水の熊井町中島町の間を北に行きて油堀仙台堀を連ぬるあり。深川側の川渠は大概おおよそかくの如し。
 佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各※(二の字点、1-2-22)小渠ありて、本澪の方と上総澪の方との間の往来の便とす。
 東京諸溝渠の大概は上記の如し。たゞ
○下田川と称する名称のことを未だ説かざりしが、明治以前の雑書に時に下田川の名を記すものは、別に一水の流れをなすありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
 川渠の大概は既に記したれば、これよりいささか海上の状を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに伴つて発達したるところなれば、芝区及び品川の西南にありて海を抱いて湾曲なせるの外は、一丘一砂嘴さしの突出して眼を遮るものだになし。されば大川の水のおのづからに土砂を流出するもの、極めて自然の状態をなして遠浅の海底を形づくるが中に、佃島の東の本澪の遠く南品川の沖に達すると、佃島西の上総澪の月島下流に至るとの二線がやゝ深き水路をなすあるのみ、岩礁の伏在するもなく、特別の潮路の去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然に堆積せるがためなれば、その砂洲の意外に広大にして、前に挙げたる二条の澪の外に大船巨艦を往来せしめがたきの観あるも怪むに足らずと言ふべし。本澪は第五第二の砲台の間を南へ通ずるなるが、その深さ大抵二ひろ以上、上総澪はその深さにおいて及ばざること遠し。是の如くなるを以て北品川の陸嘴りくしより東北に向つて海上に散布されたる造船所、第一台場、第五台場、第二台場、第六台場、第三台場、未成のままにて終りし第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎遊廓沖も砂村沖も、皆大抵春末の大干潮には現れ出づるほどの砂洲にして、これらの砂洲の上は即ち満都の士女等が
○汐干狩の楽地として、春末夏初の風のどかに天暖かなる頃、あるいは蛤蜊こうり爪紅つまくれないの手にるあり、あるいはもりを手にして牛尾魚こち比目魚ひらめを突かんとするもあるところなり。釣魚の場、投網の場もまた多くはこれら砂洲の上にあり。海苔を収むるがために「ひゞ」と称して麁朶そだを海中に柵立するところも、またこの砂洲の上もしくはその附近の地なり。中川の澪は洲崎の沖の方に東より来りてよこたはれるなるが、本澪、上総澪、台場附近と共にこれらの澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝の略説甚だ尽さゞるありといへども大概おおよそはけだし叙し去りたるならん。往時むかし後魏の※(「麗+おおざと」、第3水準1-92-85)善長れきぜんちよう峻峭耿介しゆんしようこうかいにして博覧彊記、天下の奇書を読破して水経の註四十巻を著しゝが、後終に陰磐駅に囲まれて水を得ずして力屈し、賊のために殺さるゝに至りしことあり。予今水の東京をかたるといへども、談つて甚だ詳しからず、必ずや水を得ざるの惨にあふことなからん。呵※(二の字点、1-2-22)
(明治三十五年二月)



底本:「一国の首都 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1993(平成5)年5月17日第1刷発行
   1999(平成11)年11月8日第2刷発行
底本の親本:「露伴全集 第二十九巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月
入力:八巻美恵
校正:染川隆俊
2001年8月1日公開
2005年12月7日修正
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柴田流星「残されたる江戸」より「渡し船」青空文庫  

『残されたる江戸』は、1911年〈明治44年〉5月に発表された。

東京生れの柴田が、明治に残る江戸情緒や江戸っ子気質について書き記したのもので、江戸川朝歌(竹久夢二の変名)による挿画が添えらる。国立国会図書館蔵版 

ここでは、記された 59 の項目の中から「渡し船」を見てみる。

柴田 流星(しばた りゅうせい、1879年2月28日(明治12年) - 1913年(大正2年)9月27日)
*作品を左右にスクロールしてください。

「残されたる江戸」


柴田流星


 渡し船

「おッこちが出来てわたしが嫌になり」さて霊岸島から深川への永代橋が架って以来名物の渡し一つ隅田川にその数を減じたが、代りに新しく月島の渡し、かちどきの渡しなぞふえて、佃にも同じ渡しの行きかうを見るようになった。
 しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、待乳山まつちやま下から向島への竹屋の渡し、橋場、寺島村間の白髭の渡し、橋場、隅田村間の水神の渡し、南千住から綾瀬への汐入りの渡しなぞで、その最も古い歴史を有すのは竹屋の渡しだ。
 この渡し、元は待乳の渡しといったものなのを、いつの頃からか竹屋という船宿の屋号がその通り名となり、百五十年来の名所に二つの呼び名を冠するに至ったのだ。
 花の向島に人の出盛る頃は更にも言わず、春夏秋冬四時客の絶えぬのはこの竹屋の渡しで、花の眺めもここからが一入ひとしおだ。
 されど趣あるは白髭の渡しもこれに譲らず、河鹿など聞こうとには汐入りの渡し最もよかろうと思う。
 千住から荒川に入っては豊島のわたしを彼方へ王子に赴くもまた趣あり。船遊山とはことかわるが、趣味の江戸ッ児にはこの渡し船の乗りあいにも興がりて、永代から千住までの六大橋に近い所でも、態々まわり路して渡し船に志すが尠くない。
 然ればこそ隅田川上下の流れを横切って十四の箇所を徂徠している数々の渡し船も、それぞれに乗る人の絶えないので船夫のあごも干あがらぬのである。


底本:「残されたる江戸」中公文庫、中央公論社
   1990(平成2)年6月10日発行
底本の親本:「残されたる江戸」洛陽堂
   1911(明治44)年5月
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年5月19日作成
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芥川龍之介「大川の水」青空文庫  

『大川の水』は、1914年〈大正3年〉4月に発表された短編小説。

芥川は、現在の東京都墨田区両国の大川(現在の隅田川)の近くで育ち、この小説の中で『自分はどうして、こうもあの川を愛するのか』と大川への愛を記す。

『自分の記憶に誤りがないならば、 吾妻橋あづまばし から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった』『自分はよく、何の用もないのに、此渡し船に乘つた』と「渡し」について触れ、最後に、『その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」の すた れるのも間があるまい。』と「渡し」が廃れて行く淋しさも記した。

[注]この大川は現在の隅田川のことで、江戸時代には、千住大橋より下流を隅田川、浅草付近では浅草川、宮戸川、両国付近では両国川、吾妻橋から下流では大川と、場所によって様々な呼び名があった。
[注]芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)
*作品を左右にスクロールしてください。

大川の水


芥川龍之介



自分は、大川端おおかわばたに近い町に生まれた。家を出てしいの若葉におおわれた、黒塀くろべいの多い横網の小路こうじをぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭ひゃっぽんぐい河岸かしへ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲すなずと、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日のひるすぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、ぐともなく嗅いだかわの水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。
 自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁どろにごりのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥せきりょうとを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。
 銀灰色のもやと青い油のような川の水と、吐息といきのような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色とびいろの三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳ようりゅうの葉のごとく、おののかせたことであろう。
 この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林ぞうきばやしのかげになっている書斎で、平静な読書三昧さんまいにふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟しげきと緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。大川の水があって、はじめて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることができるのである。
 自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月のに、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉とんぼの羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異のひとみを見はらずにはいられないのである。ことに夜網よあみの船のふなばたって、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。
 大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、くぐいの声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇ばら百合ゆりも、水底みなそこに沈んだような月の光に青ざめて、黒いひつぎに似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のようにいでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、いまさらのように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。

 この大川の水に撫愛ぶあいされる沿岸の町々は、皆自分にとって、忘れがたい、なつかしい町である。吾妻橋あづまばしから川下ならば、駒形こまかた、並木、蔵前くらまえ代地だいち柳橋やなぎばし、あるいは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸こうしどづくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹なみきの間から、みがいたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに、昔ながら南へ流れる、なつかしいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖いしがけを洗ってゆく。班女はんじょといい、業平なりひらという、武蔵野むさしのの昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃じょうるり作者、近くは河竹黙阿弥もくあみおうが、浅草寺せんそうじの鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。十六夜いざよい清心せいしんが身をなげた時にも、源之丞げんのじょう鳥追姿とりおいすがたのおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋いかけや松五郎が蝙蝠こうもりの飛びかう夏の夕ぐれに、天秤てんびんをにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋さんばしに、岸の青蘆あおあしに、猪牙船ちょきぶねの船腹にものういささやきをくり返していたのである。
 ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋あづまばしから新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形こまかたの渡し、富士見の渡し、安宅あたかの渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋みくらばしから須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦荻ろてきの茂った所々の砂洲すなずも、跡かたなく埋められてしまったが、この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃ゆりかごのように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面かわづらは、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色ねずみいろに統一されて、その所々には障子しょうじにうつるともしびの光さえ黄色くもやの中に浮んでいる。上げ潮につれて灰色の帆を半ば張った伝馬船てんまぶねが一そう、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、かじる人の有無うむさえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の底を流れる大川の水と同じ旋律をうたっているような気がせずにはいられないのである。

 けれども、自分をするものはひとり大川の水の響きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見いだしがたい、なめらかさと暖かさとを持っているように思われるのである。
 海の水は、たとえば碧玉ジャスパアの色のようにあまりに重く緑を凝らしている。といって潮の満干みちひを全く感じない上流の川の水は、言わばエメラルドの色のように、あまりに軽く、余りに薄っぺらに光りすぎる。ただ淡水と潮水ちょうすいとが交錯する平原の大河の水は、冷やかな青に、濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化ヒュウマナイズされた親しさと、人間らしい意味において、ライフライクな、なつかしさがあるように思われる。ことに大川は、あかちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、しわをよせて、気むずかしいユダヤの老爺ろうやのように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じくまちの中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、絶えず直接の交通を続けているためか、川と川とをつなぐ掘割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だという気がする。吾妻橋、厩橋うまやばし、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石かこうせきとれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯あんどんをうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線しゃみせんのぬるむ昼すぎを、紅芙蓉べにふようの花になげきながら、気のよわい家鴨あひるの羽にみだされて、人けのないくりやの下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永代橋えいたいばしと、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色しんらんしょくを交えながら、騒音と煙塵えんじんとにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船だるまぶねや白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。
 ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩ひゆを絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷にひじをついて、もうもやのおりかけた、薄暮の川の水面みのもを、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。
 「すべてのいちは、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄といにしえの絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウフスキイ)もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇ちゅうちょもしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
(一九一二・一)
 その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」のすたれるのも間があるまい。



底本:「羅生門・鼻・芋粥」角川文庫、角川書店
   1950(昭和25)年10月20日初版発行
   1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月11日公開
2004年3月10日修正
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永井荷風「日和下駄」より「第六 水 附渡船」青空文庫  

日和下駄ひよりげた』は、大正3年8月から翌4年6月まで九回にわたって『三田文学』に発表され、同年11月に全面的な加筆がほどこされて単行本として上梓されたもの。

ここでは、「日和下駄」より「第六 水 附渡船」後段部分の、『都会の水に関して最後に 渡船わたしぶねの事を一言いちごんしたい』とする部分を引用する。

永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)
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日和下駄


一名 東京散策記


永井荷風



第六 水 附渡船

〈前半略、後段のみ引用〉

 都会の水に関して最後に渡船わたしぶねの事を一言いちごんしたい。渡船は東京の都市が漸次ぜんじ整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代にさかのぼってこれを見れば元禄九年に永代橋えいたいばしかかって、大渡おおわたしと呼ばれた大川口おおかわぐち渡場わたしばは『江戸鹿子えどかのこ』や『江戸爵えどすずめ』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸おうまやがしわたよろいわたしを始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成しゅんせいと共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景をうかがうばかりである。
 しかし渡場はいまだことごとく東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見ふじみわたし、その川下に安宅あたけの渡が残っている。月島つきしまの埋立工事が出来上ると共に、築地つきじの海岸からは新に曳船ひきふねの渡しが出来た。向島むこうじまには人の知る竹屋たけやの渡しがあり、橋場はしばには橋場の渡しがある。本所ほんじょ竪川たてかわ深川ふかがわ小名木川辺おなぎがわへんの川筋には荷足船にたりぶねで人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
 鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く羈旅きりょとよぶ純朴なる悲哀の詩情を奪去うばいさった如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしいゆるやかな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、河水かわみず洗出あらいだされた木目もくめの美しい木造きづくりの船、かし、竹のさおを以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲みめぐり白髭しらひげに新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無ゆうむにかかわらずその上下かみしもに今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事をこいねがうのである。
 橋を渡る時欄干らんかんの左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸をくだって水上に浮びかもめと共にゆるやかな波にられつつむこうの岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更ことさら岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルトじきの道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道かんどうを抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗ってせ廻る東京市民の公生涯こうしょうがいとは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包ふろしきづつみなぞ背負せおってテクテクと市中しちゅうを歩いている者どもにはだいなる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活にあじわわれない官覚の慰安を覚えさせる。
 木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董こっとうの一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物ほうもつである。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家をうた時、座敷のとこにその家伝来の書画を見れば何となく奥床おくゆかしくおのずから主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざるの一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位をたもたしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きはひとりわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月3日作成
2012年4月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風「水のながれ」青空文庫  

『水のながれ』の初出は、昭和22年〈1947年〉頃と思われる。ここでの底本とした岩波文庫「荷風随筆集(上)」(1986年〈昭和61年〉刊)を編纂した野口冨士男によれば、作品は『発表順年に配列した』とあり、『水のながれ』の執筆年は記されないものの、その前に配列された作品が昭和22年12月とされることや、書き出しが『戦争後』と太平洋戦争の終戦後と思われることから推測した。

永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)
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水のながれ


永井荷風



 戦争後、市川の町はずれに卜居ぼくきょしたことから、以前麻布あざぶに住んでいた頃よりも東京へ出るたびたび隅田川すみだがわの流れを越して浅草の町々を行過る折が多くなったので、おのずと忘れられたその時々の思出を繰返して見る日もまた少くないようになった。
 隅田川両岸の眺めがむかしとは全然変ってしまったのは、大正十二年九月震災の火で東京の市街が焼払われてからのちの事で、それまでは向嶋むこうじまにも土手があって、どうにか昔の絵に見るような景色を見せていた。三囲稲荷みめぐりいなりの鳥居が遠くからも望まれる土手の上から斜に水際におりると竹屋たけやの渡しと呼ばれた渡場わたしば桟橋さんばしが浮いていて、浅草の方へ行く人を今戸いまど河岸かわぎしへ渡していた。渡場はここばかりでなく、枕橋まくらばしの二ツ並んでいるあたりからも、花川戸はなかわどの岸へ渡る船があったが、震災後河岸通かしどおりの人家が一帯に取払われて今見るような公園になってから言問橋ことといばしけられて、これは今戸へ通う渡しと共に廃止された。上流の小松島から橋場はしばへわたる渡船も大正の初めには早く白鬚橋しらひげばしがかけられて乗る人がなくなったので、現在では隅田川に浮ぶ渡船はどこを眺めても見られなくなった。
 わたくしはこれらの渡船の中で今戸の渡しを他処たしょのものより最も興味深く思返さねばならない。何故かというと、この渡場は今戸橋の下を流れる山谷堀さんやぼりの川口に近く、岸にあがるとすぐ目の前に待乳山まつちやまの堂宇と樹木がそびえていた故である。しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田茂睡とだもすい古碑こひも震災に砕かれたまま取除とりのけられてしまったので、今日では今戸橋からこの岡を仰いで、「切凧きれだこゆう越え行くや待乳山」の句を思出しても、むかし味ったようなこのあたりの町の幽雅な趣を思返すことは出来ない。むかし待乳山の岡の下には一条ひとすじの細い町があって両側に並んでいる店付の質素な商店の中には、今戸焼の陶器や川魚の佃煮つくだにを売る店があって、この辺一帯の町を如何にも名所らしく思わせていたが、今はセメントで固めた広い道路となってトラックが砂烟すなけむりを立てて走っている。また今戸橋の向岸には慶養寺けいようじという古寺があってここにも樹木が生茂おいしげっていたが、今はもう見られないので、震災前のむかしを知らない人たちには何の趣もない場末の道路としか見られないようになったのももっともである。平坦な道路は山谷堀の流に沿うて吉原の土手をも同じような道路にしたのみならずその辺に残っていた寺々をも大抵残るものなく取払ってしまった。むかしからの伝説は全く消滅して残る処は一ツもない。
 今戸橋をわたると広い道路は二筋に分れ、一ツは吉野橋をわたって南千住みなみせんじゅに通じ、一ツは白鬚橋のたもとに通じているが、ここに瓦斯ガスタンクが立っていて散歩の興味はますますなくなるが、むかしは神明神社の境内けいだいで梅林もあり、水際には古雅な形の石燈籠いしどうろうが立っていたが、今は石炭を積んだ荷船にぶね幾艘いくそうとなくつながれているばかり、橋向はしむこうにある昔ながらの白鬚神社や水神すいじんほこらの眺望までを何やら興味のないものにしているのも無理はない。向嶋の堤防はこの辺までも平に地ならしされて、同じように自働車やトラックの疾走する処にしている。百花園ひゃっかえんは白鬚神社の背後にあるが、貧し気な裏町の小道を辿って、わざわざ見に行くにも及ばぬであろう。むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺ちょうめいじの堂宇も今はセメントづくり小家こいえとなり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、うし御前ごぜんの社殿は言問橋ことといばしの袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その跡が現在見るような、向嶋公園と呼ばれる平坦な空地になったのだ。これは荒川の河流が放水路の開通と共に、如何に険悪な天候にも決して汎濫はんらんする恐れがなくなったためかとも思われる。吉原の遊廓外くるわそとにあった日本堤にほんづつみの取崩されて平かな道路になったのも同じ理由からであろう。実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京の市民は幾十年を過ぎた今日こんにちに至るまで、一度も隅田川の水が上野下谷したやの町々まで汎濫して来たような異変を知らない。その代り河水はいつも濁って澄むことなく、時には臭気を放つことさえあるようになったのも、事に一利あれば一害ありで施すべき道がないものと見える。浅草の観音菩薩かんのんぼさつは河水の臭気をいとわぬ参詣者さんけいしゃにのみ御利益ごりやくを与えるのかも知れない。わたくしは言問橋や吾妻橋あずまばしを渡るたびたび眉をひそめ鼻をおおいながらも、むかしの追想を喜ぶあまり欄干らんかんに身をせて濁った水の流を眺めなければならない。水の流ほど見ているものに言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない。薄く曇った風のない秋の日の夕暮近くは、ここのみならず何処いずこの河、いずこの流れも見るには最もよき時であろう。江戸時代からの俗謡にも「夕暮に眺め見渡す隅田川……。」というのがあったではないか。



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風隨筆 五」岩波書店
   1982(昭和57)年3月17日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
2019年12月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
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山本笑月「明治世相百話」より「古風なりし渡し場風景」青空文庫  

『明治世相百話』は、1936年〈昭和11年〉に発表された。

ここでは、「明治世相百話」の中から「古風なりし渡し場風景」の項を見てみる。

竹屋の渡し、橋場の渡し、白鬚の渡し、山の宿、駒形の渡し、富士見の渡し、お蔵の渡し、中洲の渡し、清住の渡し、安宅の渡しなどが見られる。

山本 笑月(やまもと しょうげつ、1873年(明治6年)10月5日 - 1937年(昭和12年)5月10日)

山本笑月の本名は山本松之助で、明治-大正時代の新聞記者。退職後は江戸・明治文化を研究。長谷川如是閑(にょぜかん)の兄。

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明治世相百話


山本笑月


古風なりし渡し場風景

大川筋にややこしい渡し船
 古風な渡船も今はたいてい新式の橋梁に変ったが、一種風流の交通機関、明治の末年までは相当お役に立ったものだ。大川筋では誰も知る竹屋の渡し、三囲みめぐり前から堤下の桟橋、馴れた足取りで船へ乗る蛇の目傘の女客、春雨時分の渡し船は、都鳥の姿とともに一段の風趣を添えた。
 上流には橋場の渡し、白鬚しらひげの渡し、下っては山の宿、駒形の渡し、瓦町から両国百本杭への富士見の渡し、それに並んで須賀町のお蔵の渡し、大橋下流に中洲や清住の渡し、まだある、浜町の安宅の渡しなど、全くややこしい渡船時代。
 これらの渡し賃が明治の中頃で大人八厘、小児五厘、人力車は一台一銭五厘、荷車八厘が通り相場、もっとも支流筋の小さい渡し、深川油堀の和倉の渡しなどは、五厘均一で不動さんの賽日などは船頭も大汗の繁昌。
 川岸に粗末な番小屋、前の台板には二厘、文久などのバラ銭を竹にさして立て並べ、番人のおっさん、くわ煙管ぎせるで頑張り、岸から二、三段の桟橋、もやった船には客が二、三人、船頭はさおを突っ張って「さあ出ますよウ」と呶鳴どなる。なかなか出さない、やや満員となってようやくともづなを解くが、交通不便の時代で客も急がずに待つ。二、三度、棹を突いて艪に代る。大川など中流へ出ると遠く両岸を眺めながら客も一服、全くノンビリと好い気持。
 さりながら雨降り風間は少々閉口、南や西が吹くと大川も波立って船は横揺れ、しぶきを浴びて時々はひやり、向う岸へ着いて「当るよウ」と船頭の一声。まず助かったとほっと息、こんな渡し場風景も、時代の波は乗っ切れず三十年代を限りとして追い追い昔の語り草、その中で築地から月島への勝鬨かちどきの渡し、市の小蒸汽に曳かれて威勢よく往ったり来たりは、渡し船最後の繁昌を見せていた。



底本:「明治世相百話」中公文庫、中央公論新社
   1983(昭和58)年7月10日初版発行
   2005(平成17)年8月25日改版発行
底本の親本:「明治世相百話」第一書房
   1936(昭和11)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「茶※(「くさかんむり/銓のつくり」、第3水準1-90-81)」と「筌」、「坪内逍遥」と「坪内逍遙」、「出版」と「出板」、「丸ノ内」と「丸の内」、「貫禄」と「貫録」、「常盤座」と「常磐座」、「田圃」と「田甫」、「独特」と「独得」、「注文」と「註文」、「大巾」と「大幅」、「葉巻型」と「葉巻形」、「群衆」と「群集」、「山の手」と「山ノ手」の混在は底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。親本も同じ場合はママ注記としました。
入力:小原田ひとみ
校正:みきた
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
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Last updated : 2021/11/09