江戸名所図会えどめいしょずえより「富岡八幡宮とみがおかはちまんぐう

  • 江戸名所図会』から、「富岡八幡宮」の6枚の絵を抜き出しパノラマ画像としました。
    *一丁の半分、つまり1ページ分の絵を1枚と数えています。
    *原画は国立国会図書館蔵。

  • 富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。通称を「深川八幡宮」とも。
  • 江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。
  • 『江戸名所図会』には次のように記される。
    富岡八幡宮とみがおかはちまんぐう
    深川永代島ふかがわえいたいじまにあり。別当べっとう真言宗しんごんしゅうにして、大栄山だいえいざん金剛神院こんごうしんいん永代寺えいたいじごうす。(略)
    本社祭神ほんしゃさいじん応神天皇おうじんてんのう神影しんえい菅神かんじんさく)。相殿あいでん、右、天照てんしょう大神宮、左、八幡はちまん大明神。三座さんざ
    相伝あいつたう、往古そのかみ源三位げんさんみ頼政よりまさ当社八幡宮とうしゃはちまんぐう神像しんぞう尊信そんしんす。其後そののち千葉家ちばけおよ足利将軍尊氏公あしかがしょうぐんたかうじこう鎌倉かまくら公方基氏くぼうもとうじ、又、管領上杉等かんれいうえすぎとう家々いえいえつたえ、太田道灌おおたどうかん崇敬そうぎょうことあつかりしが、道灌どうかんぼっするののちは、神像しんぞう所在しょざいさだかならざりしに、寛永かんえい年間長盛法印ちようせいほういん霊示れいじによりて感得かんとくす。(いま当社とうしゃより十二町ばかりひがしかた砂村すなむら海浜かいひんに、元八幡宮もとはちまんぐうしょうする宮居みやいあり。当社とうしゃ旧地きゅうちという)。よってこの当社とうしゃ創建そうこんすといえども、いまだ華構かこうかざりにおよばず、ただ茅茨ぼうしいとなみをなすのみ。しかるに、大和国生駒山やまとのくにいこまさん開基かいき宝山師ほうざんし正保しょうほう三年丙戌、永代寺えいたいじ周光阿闍梨しゅうこうあじゃり法弟ほうていとなり、寛文かんぶん四年のころ霊夢れいむかんじ、宮社きゅうしゃ経営けいえいす。日あらずして落成らくせいし、結構けっこうそなわる。しかありしより以降このかた神光しんこう日々ひびあらたにして、河東かとう第一だいいち宮居みやいとなれり。当社とうしゃがく八幡宮はちまんぐうと書したるは、青蓮院宮しょうれんいんのみや尊証法親王そんしょうほっしんのう真蹟しんせきなり。
    *適宜、現代仮名遣いとするなどした。
    *頼政は、源頼政(みなもとのよりまさ):長治元年〈1104年〉- 治承4年5月26日〈1180年6月20日〉。
    *足利将軍尊氏公は、足利尊氏(あしかがたかうじ):嘉元3年〈1305年〉- 正平13年/延文3年4月30日〈先発グレゴリオ暦1358年6月15日〉。
    *公方基氏は、足利基氏(あしかがもとうじ):興国元年/暦応3年3月5日〈1340年4月2日〉- 正平22年/貞治6年4月26日〈1367年5月25日〉。
    *太田道灌(おおたどうかん):永享4年〈1432年〉- 文明18年7月26日(1486年8月25日)。
    *寛永年間は、1624年から1645年まで。
    *華構(かこう)は、華やかで立派な造りのこと。
    *茅茨(ぼうし)は、チガヤとイバラで、ここではそれでふいた粗末な堂舎のこと。
    *正保三年は1646年で、
    *寛文四年は1664年で、
    *河東(かとう)は、江戸では隅田川の東側、本所、深川のこと。
    *青蓮院宮尊証法親王(しょうれんいんのみやそんしょうほっしんのう):天台座主。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の第十七皇子(慶安4年2月10日〈1651年3月31日〉- 元禄7年10月15日〈694年12月1日〉)。
    *真蹟(しんせき)は、本当にその人が書いたもの。真筆のこと。
《6枚をつないだパノラマ画像》
「富岡八幡宮」
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江戸名所図会えどめいしょずえ 』とは
  • 江戸名所図会えどめいしょずえ』は、全7巻、20冊からなる絵入りの江戸の地誌。江戸名所の集大成と評される。
  • 斎藤幸雄さいとうゆきお長秋ちょうしゅう)が、寛政年間の江戸府内などの実地調査をして原稿を執筆したが刊行出来ず、その子幸孝ゆきたか莞斎かんさい)、孫の幸成ゆきしげ月岑げっしん)へと引き継がれ三十余年の時を経て三代で完成。第一巻から第三巻までの 10冊は天保5年〈1834年〉に、第四巻から第七巻までの 10冊は天保7年〈1836年〉に刊行された。
  • 寛政から天保に至る、江戸およびその近郊の町・神社・仏閣・名勝地・旧跡・橋・風俗などを多数の絵とともに説明。丁数で 1,160余、ページ数で 2,300余にのぼる大作。
  • 月岑げっしんは『附言』で次のように記す。
    この書は祖父が寛政中の編にして、父県麻呂あがたまろ刪補さんぽ、文化の末に至りてなり、文政の今に至りて上梓の功を終りぬ。凡そ年序を経る事三十有余年、江都蕃昌はんじょうしたがひて、神社寺院、境地沿革するものすこぶる多し。一向の小祠も須臾しゅゆに壮麗たる大社となり、わづかの草庵も巍然ぎぜんたる荘厳となれるもの少なからず。或いは祝融しゅくゆうわざわいかかりて楼門回廊を焼失し、礎石のみ存するの類、興廃枚挙すべからず。しかりといへども時々是を改むる事あたはず。故に今時のていたがへるもの多し。見るものいぶかる事なかれ。
    斎藤月岑識

    [注]
    斎藤長秋さいとうちょうしゅう :1737〈元文2〉年 - 1799〈寛政11〉年(長秋が没した寛政11年は、)。 斎藤莞斎さいとうかんさい :1772〈安永元〉年 - 1818〈文化15〉年。 斎藤月岑さいとうげっしん :1804〈文化元〉年 - 1878〈明治11〉年。寛政:1789年 - 1801年。文化:1804年 - 1818年。文政:1818年 - 1831年。 刪補さんぽ: 取り去ったり付け足したりすること。年序:年数。沿革:漸次にうつり変わる。一向の小祠:まったく小さな祠。須臾しゅゆ:わずかの時間。巍然ぎぜん:際立っているさま。祝融しゅくゆうわざわ:火災。火事の災難のこと。
  • 絵は 長谷川雪旦はせがわせったん(安永7年〈1778年〉- 天保14年1月28日〈1843年2月26日〉)。挿画はその多くが鳥瞰図の技法で描かれる。

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Last updated : 2023/12/09