ものの数え方・助数詞
《 コラム - ちょっと知識 》
握りずし『一貫いっかん』の不思議
2. 「握りずし」が広まったのはいつ頃?

  • 文中に、「今から○○年前」というような表現が出てきます。これは毎年更新されますが、その出来事がその年の「何月」であったのかの考慮はなされていません。
  • 「すし」は、『鮓』『鮨』『寿司』などの漢字を使うことがありますが、ここでは、引用した文献による表記以外は、基本的に「すし」としています。
  • 引用した文献で、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに変えているものがあります。
  • 文中、敬称を省略しています。
2. 「握りずし」が広まったのはいつ頃?
  • 「握りずし」が世の中に広まったのはいつ頃なのかを調べて見ると、江戸時代後期の「化政期」と呼ばれる年代の、文化・文政年間(1804年〜1830年)頃ではないかということが浮かんできます。
     江戸時代の年号
    1615~1624 元和
    1624~1644 寛永
    1644~1648 正保
    1648~1652 慶安
    1652~1655 承応
    1655~1658 明暦
    1658~1661 万治
    1661~1673 寛文
    1673~1681 延宝
    1681~1684 天和
    1684~1688 貞享
    1688~1704 元禄
    1704~1711 宝永
    1711~1716 正徳
    1716~1736 享保
    1736~1741 元文
    1741~1744 寛保
    1744~1748 延享
     
    1748~1751 寛延
    1751~1764 宝暦
    1764~1772 明和
    1772~1781 安永
    1781~1789 天明
    1789~1801 寛政
    1801~1804 享和
    1804~1818 文化
    1818~1830 文政
    1830~1844 天保
    1844~1848 弘化
    1848~1854 嘉永
    1854~1860 安政
    1860~1861 万延
    1861~1864 文久
    1864~1865 元治
    1865~1868 慶応
    1868~1912 明治
    ※「化政期」は、「化政文化」とも呼ばれる町人文化が発展した年代でもあります。
  •  これを読み解く二つの資料があります。
  •  その一つは、江戸・京都・大阪の三つの都市を中心に、人々の営みを記した江戸時代の風俗を知る百科事典とも言われる、 喜田川守貞 きたがわもりさだ (文化7年・1810年〜没年未詳)という人が書いた『 守貞謾稿 もりさだまんこう 』という文献で、「すし」といえば、もともと「押しずし」であったものが、『江戸では「握りずし」のみになった』ということが、二か所に出てきます。
    『三都とも押鮓なりしが、江戸はいつ ごろ よりか押したる はこ 鮓廃し、握り鮓のみとなる。筥鮓の廃せしは五、六十年以来ようやくに廃すとなり。』
            喜田川守貞著「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)鮓」
    - 宇佐美英機校訂「近世風俗志」・岩波文庫 P107

    『また江戸にても、 もとは京阪のごとく筥鮨。近年はこれを廃して握り鮨のみ。握り飯の上に鶏[卵]やき・鮑・まぐろさしみ・海老のそぼろ、小鯛・こはだ・白魚・たこ 等を専らとす。その他なお種々を製す。』
             喜田川守貞著「守貞謾稿 巻之六(生業下)鮨売り」
    - 宇佐美英機校訂「近世風俗志」・岩波文庫 P293
    喜田川守貞(季荘)。文化7年・1810年に大阪で生まれる。(没年未詳)
    天保11年・1840年、31歳の時、大阪から江戸に移り住む。
    「守貞謾稿」は、天保8年・1837年から慶応3年・1867年まで、30年間にわたって書かれた、巻三十と、後集五からなる江戸時代後期の風俗を知る貴重な資料である。
    守貞は、一度書いたものの追加訂正などをしているが、嘉永6年・1853年にペリー艦隊来航の報を受けて一度筆を置いている。戦争が起こるのではないかとの不安を抱いていたが、「幕府無事を旨とするにより」、さらに追書・追考を行い、慶応3年・1867年に「百年の遺笑を思ひながら再び蔵蓄す」と結び、擱筆している。
    【国立国会図書館デジタル化資料による解説】
     喜田川守貞(季荘)が著した近世風俗書。稿本のまま残され江戸時代には刊行されなかった。「専ら民間の雑事を録して子孫に遺す。」という著者の言葉どおり生業、遊戯、年中行事、食物など広範囲にわたり図も交え記されている。喜田川守貞は、文化7(1810)年大阪生まれ。没年は未詳。初め石原氏。天保11(1840)年江戸に移り、北川氏を継いだ。31歳の時、大阪から江戸に移住したので、上方と江戸との相違にも注目している。天保8(1837)年より書き始め、嘉永6(1853)年以降にも追書や追考を行ったとの書入れがある。
    「国立国会図書館デジタル化資料」で読むことが出来ます。

  •  ここに出てくる、『筥鮓の廃せしは五、六十年以来』が “ いつ ” なのかを知ることによって、江戸で『握りずし』が作られ始めた年代を推測できることになります。
  •  この項の前後の項に、『文化元年に』という言葉に続けて『五十年来』という言葉が出てきます。また、『今、安政に至り』という言葉が出てきます。このことから、この『鮓』に関する項は安政元年・1854年頃に書かれたと推測できます。
  •  これからして、『筥鮓の廃せしは五、六十年以来』は、寛政6年・1794年から文化元年・1804年頃で、その頃から押しずしが廃れ始めたということになり、逆に言えば、握りずしがその頃に作られ、もしくはそれ以前から作られていたと読み解くことが出来るでしょうか。
    • このころの年代を見てみると、次のような年号になります。
      ・天明 1781~1789 
      ・寛政 1789~1801 
      ・享和 1801~1804 
      ・文化 1804~1818 
      ・文政 1818~1830 

  •  もう一つの、「握りずし」を読み解く資料は、前項で出てきた、「握りずし」の大成者とされる「与兵衛鮓」の 華屋与兵衛(寛政11年・1799年〜安政5年・1858年)の曾孫にあたる、小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)が、明治43年・1910年()に書いた『家庭 鮓のつけかた』です。ここでは、次のように記されています。
    • ①『江戸にすしが出来たのは、 貞享 じょうきょう の頃。貞享4年の文献に二軒が載っている』
    • ②『天明の頃に非常に増えた。天明7年の文献に名家二十四軒が載っている』
    • ③『天明から14、5年経った文化には、「松の鮓」の名声が高かった』
    • ④『「松の鮓」までは押し鮓であった』
    • ⑤『江戸に「握り鮓」の起こったのは文政の初め。案出したのは与兵衛鮓の初代。ただし、それ以前にも作った人はいたようだ』
    家庭 鮓のつけかた』 小泉清三郎
     〈四〉江戸の鮓

     江戸に鮓店の出来ましたのは 貞享 じょうきょう 頃の事で、貞享四年の刊本『江戸鹿子』には、鮓 ならび いい すし四ッ谷舟町横町近江屋、同所駿河屋の二軒が載ってあるばかりです。 〈中略〉
     天明時代になりますと、非常に鮓屋も殖えて、今迄は飯鮓とか、交ぜ鮓とか極く簡単に称えて居りました看板も、追々複雑になって、天明七年版の『七十五日』という 商標 ふだかみ 蒐集 あつ めた書には、当時の名家廿四軒を列記して、 〈中略〉
     その後、寛政、享和と十五六年経ち文化時代になって、初めて名代の『松の鮓』が出来たのです。 〈中略〉
     それで、以上述べました江戸の鮓と云うのは皆京阪から伝わりました押鮓ばかりで、当時迄は握鮓の影を八百八町に物色しても見当たらなかったのです。

     〈五〉握鮓の流行
     江戸に握鮓の起ったのは文政今を る九十年 ぜん の初めで、今の與兵衛鮓の初代が この 新法を案出したと旧記にあります。 もっと も與兵衛以前に此の法を企てた者も二三はありましたようですが、皆失敗に帰して 市人 しじん 嗜好 しこう に適さなかったようです。

    小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』
    大蔵書店(明治43年・1910年)P152 - 158
    小泉清三郎(明治17年・1884年〜昭和25年・1950年)
  •  これらの年代に符合するような絵が残されています。
     一つは宝暦三年・1753年( )に描かれたもの。
     もう一つは天明六年・1768年( )に描かれたもの。
     もう一つは天保十二年・1841年( )~天保十三年・1842年( )に描かれたもので、1750年代から60年代の宝暦と天明の絵には「はこずし」が描かれ、1841、2年の絵にはすしを握る様子も描かれています。


    1. 宝暦三年・1753年の絵に見られる「すし」
      『絵本江戸みやげ』西村重長画
      「はこつけすし」の文字が見られ、「押しずし」が 売られていたことが分かる。看板に「春し」の文字 が見られる。「春」は変体仮名の「す」。 「す」の変体仮名は「寿」の字もよく使われる。


      天明六年・1768年の絵に見られる「すし」
      絵本江戸爵えほんえどすずめ』喜多川歌麿画
      売られているのは箱に入った「押しずし」で、屋台の右手には、押しずしの「筥(箱)」を運ぶ姿も描かれている。


      天保十二年・1841年~
       天保十三年・1842年の絵に見られる「すし」
      『東都名所 高輪二十六夜待遊興之図』歌川広重画
      屋台に「すし」が並べられ、屋台の奥では、職人が「すし」を握っている。

  •  前述の、すしを握る姿が見られる天保十二、三年の絵から十年ほど遡った文政年間には、「握りずし」が詠まれた川柳も見られるようになります。
     文政12年・1829年()に詠まれた川柳に「握る」という言葉が出てきて、江戸の人々がすしを握る姿に関心を持っていたことが分かります。
    妖術という身で握る鮓の飯 帆布
    鮓のめし妖術という身でにぎり 帆布
    文政12年・1829年『誹風柳多留 百八篇』
  •  また、文政年間(1818年〜1830年)に、「握りずし」が江戸以外にも広まって行くことが分かる記述も残されています。『文政の末に、初めて大阪に江戸風握りずしを売る店が現れた』とするものです。
    「文政末此より、 戎橋 えびすばし 南に松の鮓と号け江戸風の握り鮓を売る。 〈中略〉 これ大阪にて江戸鮓を売るの初めなり。〈中略〉 余在阪の時はこの一戸なりしが、今は諸所にてこれを売るとなり。」
    編集注:守貞が江戸に出たのは天保11年・1840年。31歳の時
            喜田川守貞著「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)」
    - 宇佐美英機校訂「近世風俗志」・岩波文庫 P108
     文政は1830年までですので、これによれば、1820年代後半には「握りずし」が大阪に伝えられたことになり、江戸で広まったのはそれよりも以前ということになります。
  •  従って、江戸では1800年代前半か、もしくはそれよりも早くから作られるようになり、文政年間(1818年〜1830年)には、華屋与兵衛などの努力もあって江戸は「握りずし」の時代に入り、大阪まで広まっていったということになるのではないでしょうか。
  •  前述の『守貞謾稿』によれば、
    ・安政の頃(1854年頃)の江戸は、『握りずしのみ』
    ・『鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮の長いまま』
    ・『値段は大体八文。玉子巻は十六文』
    ・『すし店がとても多く、毎町に一、二戸』
    ・『名のある店は、松の鮓、与兵衛鮓、毛抜鮓、小松鮓』
     などと記されています。
    『守貞謾稿』 喜田川守貞
     鮓

    〈中略〉
     江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。
     以上、大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添うるに新生薑の酢漬、姫蓼等なり。また隔て等には熊笹を用い、また鮓折詰などには鮓上に下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。
     京阪にては隔てにはらんを用い、また添え物には紅生姜と云いて梅酢漬を用う。
     江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。
     江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云う。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。
     東両国元町与兵衛鮓。
     へっつい川岸毛抜鮓は、一、弐文にて各々笹巻にす。巻きて後、桶に積み、石をもってこれを圧す。
     深川横櫓小松鮓。

     〈後略〉
    喜田川守貞『守貞謾稿』
    宇佐美英機校訂「近世風俗志」岩波文庫(平成14年・2002年)P109
    喜田川守貞(季荘)(文化7年・1810年〜没年未詳)
    1.  喜田川守貞による鮓の図
      喜田川守貞による鮓の図
  •  さらに、この喜田川守貞とほぼ同じ時期の嘉永三年・1850年()頃に、大阪生まれの歌舞伎作者、西沢一鳳にしざわいっぽうはその著書「皇都午睡みやこのひるね 」で、『江戸のすしは皆握り鮓であった』などと書いていて、文政、天保、弘化を経て、嘉永年間(1848年〜1854年)には江戸は握りずし一色になっていたことが分かり、前述の喜田川守貞の記述とも呼応します。
    『皇都午睡』 西沢一鳳
     下之巻 毛抜鮓


    =要約=

    東都(江戸)の鮓といえば皆握り鮓で、京摂(京阪地方)のような切鮓はなく、上方で言う出し店である家躰(屋台)店の「安宅松の鮓」と「両国與兵衞鮓」のものは別格念入りであった

    西沢一鳳『皇都午睡』
    西沢一鳳(西沢綺語堂 )(享和2年・1802年〜嘉永5年・1853年)

  • ・文献などによる情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡ください

  •  次の項では、先ほど出てきた「妖術という身で握る鮓の飯」という川柳も含めて、江戸時代の俳句、川柳、狂歌、狂詩などに詠まれた「すし」を見てみます。

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Last updated : 2019/05/15