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■ 使い方と説明
- 下の枠の番号や作家名、作品名などをクリックすると、表示されている作家の作品が出たり消えたりします。
- 主に明治・大正から昭和初期の作家の、日本文学を主とする著名な作品の「書き出し」と「書き終わり・結び」を収録しました。一部翻訳文も含まれます。
- 詩集や、段などで書かれている作品は、初めの一編(一段、一作など)と最後の一編(一段、一作など)を「書き出し」「書き終わり・結び」として示しました。小説や随筆などにおける「書き出し」「書き終わり・結び」とはやや趣が異なります。
- このページでは、『作家別・ま行』の作品の「書き出し」、つまり作品の最初の部分を表示します。
- 「書き終わり・結び」は別のページで見ることができます。「書き終わり・結びを見る」をクリックしてください。
- 「インターネット電子図書館 青空文庫 」からの引用がかなりの割合を占めます。引用したサイトがある場合、それぞれの作品の原文へのリンクを設けました。
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1.正岡子規 「歌よみに与ふる書」
仰の 如く近来和歌は一向に振ひ 不申候。正直に申し候へば万葉以来 実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も 活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と 存候。 強ち 人丸・ 赤人の 余唾を 舐るでもなく、 固より 貫之・ 定家の 糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領 屹然として 山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に 畏るべく尊むべく、覚えず 膝を屈するの思ひ 有之候。
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2.宮沢賢治 「オツベルと象」
……ある牛飼(うしか)いがものがたる
第一日曜
オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据(す)えつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。
十六人の百姓(ひゃくしょう)どもが、顔をまるっきりまっ赤にして足で踏(ふ)んで器械をまわし、小山のように積まれた稲を片っぱしから扱(こ)いて行く。藁(わら)はどんどんうしろの方へ投げられて、また新らしい山になる。そこらは、籾(もみ)や藁から発(た)ったこまかな塵(ちり)で、変にぼうっと黄いろになり、まるで沙漠(さばく)のけむりのようだ。
そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀(こはく)のパイプをくわえ、吹殻(ふきがら)を藁に落さないよう、眼(め)を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往(い)ったり来たりする。
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3.宮沢賢治 「風の又三郎」
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは 栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を 噴く岩穴もあったのです。
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4.宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
一、
午后
の授業
「ではみなさんは、そういうふうに川だと 云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に 吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを 指しながら、みんなに 問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
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5.宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
一 森
グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。
ブドリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとおとうさんの木を 挽く音が、やっと聞こえるくらいな遠くへも行きました。二人はそこで木いちごの実をとってわき水につけたり、空を向いてかわるがわる 山鳩の鳴くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、ぽう、と鳥が眠そうに鳴き出すのでした。
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6.宮沢賢治 「水仙月の四日」
雪婆んごは、遠くへ出かけて 居りました。
猫のような耳をもち、ぼやぼやした灰いろの 髪をした雪婆んごは、西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲を 越えて、遠くへでかけていたのです。
ひとりの子供が、赤い 毛布にくるまって、しきりに カリメラのことを考えながら、大きな象の頭のかたちをした、 雪丘の 裾を、せかせかうちの方へ急いで居りました。
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7.宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六 交響曲の練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
ゴーシュも口をりんと結んで 眼を 皿のようにして 楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
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8.宮沢賢治 「注文の多い料理店」
二人の若い 紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする 鉄砲をかついで、 白熊のような犬を二 疋つれて、だいぶ 山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを 云いながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山は 怪しからんね。鳥も 獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」
「 鹿の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お 見舞もうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと 倒れるだろうねえ。」
それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あんまり山が 物凄いので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく 吠って、それから 泡を 吐いて死んでしまいました。
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9.宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
なめとこ山の 熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。 淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな 洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
中山街道はこのごろは 誰も歩かないから 蕗やいたどりがいっぱいに生えたり牛が 遁げて登らないように 柵をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の 胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の 胆は名高いものになっている。
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10.宮本百合子 「貧しき人々の群」
村の南北に通じる 往還に沿って、一軒の農家がある。人間の住居というよりも、むしろ何かの巣といった方が、よほど適当しているほど穢い家の中は、窓が少いので非常に暗い。
三坪ほどの土間には、家中の雑具が散らかって、梁の上の暑そうな 鳥屋では、 産褥にいる牝鶏のククククククと喉を鳴らしているのが聞える。
壁際に下っている鶏用の丸木枝の 階子の、糞や抜け毛の白く黄色く付いた段々には、痩せた雄鶏がちょいと止まって、天井の牝鶏の番をしている。
すべてのものが、むさ苦しく、臭く貧しいうちに、三人の男の子が炉辺に集って、自分等の食物が煮えるのを、今か今かと、待ちくたびれている。
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11.紫式部 「源氏物語 桐壺」 与謝野晶子訳
紫のかがやく花と日の光思ひあはざる
ことわりもなし (晶子)
どの天皇様の 御代であったか、 女御とか 更衣とかいわれる 後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御 愛寵を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に 恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして 嫉妬の 焔を燃やさないわけもなかった。夜の 御殿の 宿直所から 退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて 口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ 帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。
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12.森鷗外 「阿部一族」
従四 位下左近衛少将兼 越中守細川忠利は、寛永十八年 辛巳の春、よそよりは早く咲く領地 肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して 参勤の 途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。
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13.森鷗外 「雁」
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、 上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された 一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その 外は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、 小気が利いていて、お 上さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の 向側にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ 肴を 拵えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、 我儘をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。 先ずざっとこう云う 性の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を 擅にすると云うのが常である。 然るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は 頗る趣を殊にしていた。
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14.森鷗外 「山椒大夫」
越後の 春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を 踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた 同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を 物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、 笠やら 杖やらかいがいしい 出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。
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15.森鷗外 「高瀬舟」
高瀬舟は京都の 高瀬川を 上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が 遠島を申し渡されると、本人の親類が 牢屋敷へ呼び出されて、そこで 暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、 大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都 町奉行の配下にいる 同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一 人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは 上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
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16.森鷗外 「舞姫」
石炭をば 早や積み果てつ。中等室の 卓のほとりはいと静にて、 熾熱燈の光の晴れがましきも 徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る 骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余 一人のみなれば。
五年前の事なりしが、 平生の望足りて、洋行の官命を 蒙り、このセイゴンの港まで 来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして 新ならぬはなく、筆に任せて書き 記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、 今日になりておもへば、 穉き思想、身の 程知らぬ放言、さらぬも 尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、 日記ものせむとて買ひし 冊子もまだ白紙のまゝなるは、 独逸にて物学びせし 間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
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Last updated : 2024/06/28