土用の丑の日の鰻
= 大伴家持が詠んだ「鰻」 =

《  大伴家持おおとものやかもち が詠んだ「鰻」 》

「土用の丑の日」に関することではないが、奈良時代[注1]大伴家持おおとものやかもち[注2] が鰻を詠んだ歌が万葉集[注3]に残され、「鰻は夏やせに良い。鰻を食べなさい」としている。

嗤笑ししょう」「 戯咲ぎしょう 」の文字が見られ、ここでは痩せた人をたわむれに笑って詠んだ歌とされている。

 調理法、食べ方については触れられていない。

  • 嗤咲痩人歌二首
  • せたる人を嗤咲わらえる歌二首
  • 石麻呂爾 吾物申 夏痩爾 吉跡云物曽 武奈伎取食
  • 石麻呂いしまろわれまを夏痩なつやせに よしといふ物ぞ むなぎ取り
  • [大意]石麻呂さんに申し上げます。夏痩せに良いというものがあります。どうぞ鰻を捕って召し上がりなさい。
    *「石麻呂(いしまろ)」とした部分は、「いわまろ」とする文献も見られるが、ここでの読みは、国立国会図書館所蔵の慶長元和年間〈1596年 - 1624年〉とされる版を基にした。
    *「むなぎ」は、「うなぎ」の古形。
  • 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河爾流勿
  • すも 生けらばあらむを はたやはた むなぎると 川に流るな
  • [大意]いくら痩せていても、生きていられれば良いではありませんか。間違っても鰻を捕るために川に入って流されたりしないようにしてください。
    *「痩す痩す」とした部分は、参考にした国立国会図書館所蔵の慶長元和年間〈1596年 - 1624年〉とされる版では「痩せ痩せ」との振り仮名が書き込まれているが、ここでは「やせる」の文語形である「やす」とした。同じく国立国会図書館所蔵の宝永6年〈1709年〉版では、「ヤセ/\」の脇に「ヤス/\」の書き込みが見られる。
  • [左注]
    右有吉田連老字曰石麻呂 所謂仁敬之子也 其老為人身體甚痩 雖多喫飲形以飢饉 因此大伴宿禰家持聊作斯歌以為戯咲也
  • 右は、吉田連老よしだのむらじおゆあざなは石麻呂と曰ふもの有り。所謂いわゆる仁敬が子なり。其の老、為人ひととなり身體いたく痩せたり。多くらひめども、形飢饉に似たり。此れに因りて、大伴宿祢家持いささかにの歌を作りて、以て戯咲を為す
  • [大意]吉田連老よしだのむらじおゆ 、通称、石麻呂(いしまろ・いわまろ)という、仁敬の子がおりましたが、体がとても痩せていました。いくら食べても飲んでも、いつも飢えているように痩せていましたので、大伴家持がちょっとこの歌を詠んでたわむれに笑ってみました。
*ここでの読みなどは、国立国会図書館蔵の慶長元和年間とされる版を基にした。


萬葉集[16](慶長元和年間刊)
(国立国会図書館蔵)
慶長元和年間〈1596年 - 1624年〉


万葉和歌集[16](宝永6年刊)
(国立国会図書館蔵)
宝永6年〈1709年〉

[注1]
奈良時代:710年 〜 広義では794年〈延暦13年〉。狭義では784年〈延暦3年〉。

大伴家持(菱川師宣 画)国立国会図書館蔵「小倉百人一首」より
大伴家持
(菱川師宣 画)

[注2]
大伴家持おおとものやかもち:養老2年〈718年〉頃 〜 延暦4年8月28日〈785年10月5日〉 。奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。旅人の子。中納言。越中守・兵部大輔ひょうぶのたいふなど地方・中央の諸官を歴任。万葉集編纂者の一人といわれる。万葉末期の代表的歌人で、歌数も最も多い。[出典:デジタル大辞泉]

[注3]
万葉集:奈良時代末期の成立とみられている。最も新しい歌が、大伴家持の759年〈天平宝字3年〉正月の作であることから、これより後の編纂とされる。

  天保8年〈1837年〉 に、丈我老圃じょうがろうほによって書かれた『 天保佳話 てんぽうかわ 』には、「土用の丑の日に鰻を食べるのは夏やせを治すもの」と、大伴家持(ここでは憶良と間違って記されている)も鰻は夏やせに良いと言っているとして説を述べている。

土用ノ丑ノ日ニ𩻠鱺ヲ喫フ事ハ𩻠鱺ハ夏痩ヲ療スルモノナレバナリ殊トニ丑ハ土ニ属ス土用中ノ丑ノ日ハ両土相ヒ乗ズルモノナリ万葉ニ憶良等ニ我モノ申ス夏痩ニヨシト、イフナルムナギメシマセト、アレハ古シエヨリ夏痩ニハ𩻠ヲ食フ事ト見エタリウム相ヒ通ス
《参考 万葉集古義》
「万葉集古義 第16巻 下天」鹿持雅澄著 より
 明治24年〈1891年〉宮内省刊 国立国会図書館蔵
『雑節』節分、彼岸、入梅、土用など  
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Last updated : 2022/11/23