ものの数え方・助数詞
《 コラム - ちょっと知識 》
「一人前」とは?

 料理などで「一人前」という表現が使われることがあります。では「一人前」とはどの位の量を指すのでしょうか? 誰が「一人前」を決めるのでしょうか?
 料理屋でめしを注文すれば一ごう二、三じゃくを一人前という。
 牛肉屋に肉を注文すれば二十五もんめより三十五もんめまでをもって一人前とする。
 一人前にたいしてかくのごとき標準をもうけたのは何より起こったのであるか。
(新渡戸稲造 『自警録』より)
 五千円札の肖像にもなったことのある新渡戸稲造にとべいなぞうは、このような疑問を投げかけています。しかし、この一文は、料理の一人前を述べようとしている訳ではありません。
『一人前の人と一人前の仕事』という表題で、
『我は果たして一人前の仕事をし終えたるか、我は果たして一人前の人となりしか』
と自問しながら、「一人前とは?」と問いかけています。

 果たして新渡戸は、「一人前」の結論をどこに見出したのでしょうか。ここでは、『自警録』の『第二章 一人前の人と一人前の仕事』を読みながら、「一人前」について考えてみることにしましょう。

自警録


新渡戸稲造



第二章 一人前の人と一人前の仕事


一人前とは何を標準とした言葉か

 永き過去を持たぬ人にも、自己の身の上を反省し、もって将来のことを計るのは、折々あることであろう。まして一生の旅路の坂を下りかけた人にはしばしばある。ゆえにこれは 老若ろうにゃくを問わず誰しも経験あることと信ずる。凡人の習いと言わんか、僕もこの例にたがわず四十歳前後のころよりしばしば、
おのれは一人前にんまえの仕事をしたであろうか」
 を自問した。しかしてこの問題の起こると同時に起こる疑問は、そもそも一人前というはいかなるりょうを指すかということである。
 一人前にんまえ、一人分にんぶん、一ととおり、人並ひとなみ、十人並にんなみ 、男一ぴきの任務などいう言葉はわれわれのつねに聞くところである。なかんずく一人前という言葉は種々の場合に応用されている。反物たんもの一反あれば一人前の衣服が出来る。五ごう の米があれば人間一人の一日の生命をつなげる。
 独立の生活を営み得るだけの芸術を習得すれば、一人前の芸人となる。
 料理屋でめしを注文すれば一ごう二、三じゃくを一人前という。
 牛肉屋に肉を注文すれば二十五もんめより三十五もんめ までをもって一人前とする。
 一人前にたいしてかくのごとき標準をもうけたのは何より起こったのであるか。
 四しゃくに足らぬ男にも、六しゃくちかい大兵だいひょうにも、一たん の反物をもって不足もしなければあまりもせぬ。もっとも仕立の方法によりてはいかようにもなし得られる。特別の理由あるにあらざれば、たけの長短を斟酌しんしゃくせず一人前は一たん と定めてある。
 また小食の人も健啖家けんたんかも、にくを注文すれば同じ分量をさずけられる。ほとんど個性を無視しておとこぴき食物しょくもつ何合なんごう、衣類は何尺なんじゃくと、一人前なる分量が定まっている。して、この分量は数学的に割り出したのではない。
 日本には何尺の反物が出来る。これを人口に割り当てて一人前は何尺としたのでなく、また消費の額を精算して、日本人は春夏秋冬を通じて衣服は何枚るかから割り出したものでもない。
 それと同じく人の容貌ようぼうを評するにも、よく十人なみ という言葉を使う。これはすなわち美醜びしゅうの一人前という意味であるが、美醜の割り出しなどは、眼鼻めはな顔形かおかたちの寸法をはかって出来得るものでない。まして芸などについては算盤そろばんにかけることは絶対的に不可能のことである。
 これによりてこれを見れば一人前あるいは一人ぶんと称するは、統計学者が平均人と称するものとはだいぶおもむきを異にしているように思う。

一人前と統計学者のいうノルム

 大槻おおつき先生はその著『言海げんかい』において、人並みという言葉を説明して、世の常の人のつらなること、尋常じんじょう と説いている。これをもって見ても人並みまたは一人前ということが平均とは違うことがわかる。統計学者がよく用うる言葉にノルム(norm)というがある。通常これを標準、規範、 かたなどと訳しているけれども、この訳語にては他の文字と混同するおそれがあるから、僕は原語げんごのままにノルムという字をもち いたいと思う。ノルムはその語原ごげんを調べると大工だいく の使用する物指ものさしすなわち定規じょうぎである。この定規にかなったものがノルムてきすなわち英語にいうノーマル(normal)である。一人前のひとというのはノルムで測って不足なき人をいうので、すなわち常識的に言わば肉眼鑑定で見て、まずまず一ととおり具備そなわっているものを指していうのであろう。未開国なら未開国相応に風俗・習慣・智能・信仰があって、これに応ずる態度がある。
 これすなわちその国のノルムにかな うというべきものである。もしこのノルムに達し得なければ、その人は社会の一員として取扱われぬ不幸におちいる。ゆえに同じ国人こくじんのうちでも精神薄弱児とか精神異常者を測ればノルムにかなわぬ。
 ノルムと平均とを同じように用いても差し支えないこともあろうが、平均は実在的じつざいてき現象を測るもので、ノルムは実際経験の後、れいうとなく、十もくが見、十ゆびさして、一種の理想的標準を設け、物を測定するに用うるものであるとおもう。老子ろうしの有名なる語に、
みちみちとすべきはつねみちにあらず」と。
 これは種々に解釈されるが、平均とノルムとをもってしても解釈の一ぽうとなし得はせぬか。人が普通にみちというのは実測上のすなわち平均の道というので、常の道というのはノーマルの道をいうのであろう。さすれば同じく平均だけの仕事をするものをもって一人前の任務を終えたものとみなすことが出来できようか。僕はかくのごとき問題で長く頭脳ずのうを痛めたが、恥ずかしいことにはこれを自己に応用して問題を解決し得なかった。しかしてこれは今もなお出来たとは断言しがたい。

一人前の人と一人前の業

 この問題を提出したならば、何人なんぴともそれは国柄や年齢にもよろうし、社会の位地職業等にもよろう。五十歳の男と二十歳の青年と同一にこの問題につることは出来ぬというであろう。一人前のぎょうを客観的に一定することが出来ればまことに気が楽であるが、とてもことわざにあるごとく、
田舎いなかの一しょう江戸えどでも一しょう
 というわけにはゆくまい。僕もまた幾ぶんかそう思うけれども、二十歳の者なら二十歳の一人前並みであるか、丁稚奉公でっちぼうこうの職にあるものならば丁稚でっちの一人前のことをなしたか、一国の宰相さいしょうなら宰相として一人前の仕事をしたか。こういうように一人前なる意義をせまく取りてこの問題を解決せんとすれば、恐らく各自に解決が出来ると思う。しかしいかなる問題もこれを根本的に解決することは容易ならぬことである。ゆえに根本的でなくとも、一時的の解決にてもよかろうが、とにかく幾らか安心の出来るだ けの解決はしたいものである。
 自分は果たして一人前の仕事をなしたかというのと、自分は果たして一人前の人間であるやということとは、二つの問題であって、もちろんそのあいだに少なからざる差違がある。今しばらく仕事について愚説ぐせつを述べてみよう。
 一人前の仕事という分量は何人なんぴとが定めるのか、これをきわめて具体的にわかりやすくたとえれば、学生の身なれば一日の一人前の仕事はさずけられた学科を習得し、点数は百点に達しなくとも、七十点も取れれば一人前とみなされるであろう。商売人であればその日の取引を残らず結了けつりょう することであり、一家の主婦なれば一日のあいだにすべき掃除そうじ なり料理なりその他おっとに対する義務、子供に対する世話をも首尾しゅびよくしとげることであろう。右は一日の仕事をいったのであるが、これを一年を通じてその日その日の務めをまっとうし、ひいては終身これを継続せば、この人はたしかに一人前の仕事をした人で、天にも地にも人にも恥じぬ人であろう。古人の言のごとく、
ること一日ならば、一日の好人こうじんるを要す」
 との心掛けを連日実行して、一生をつらぬけば、その人はじつに好人である。

測る標準は内にあるか外にあるか

 しかるにこの例について起こる疑問は、定規じょうぎとして用いた標準はみな自己以外にあることである。学生ならば学校の規則と教師の要求する業務を行うのである。商売人ならば他より起こる取引をまっとうするのであり、婦人ならば家政上のことを、いわば余儀なくさせらるるのである。ノルムは定規じょうぎなりといったが、この定規は自己以外に、世人せじんがわれわれに期待する業務の分量であり、してその分量は、同じ境遇にある普通の人がしつつある分量であって、甲も乙もへいていやり得るのだから誰れでもやるべきものと定められている分量である。俗にいう世間せけんの勤めとはこのことをいうらしい。
 ここで僕の心を苦しむることは右のごとく一定の職務とか地位とかが要求するのなら、ずいぶん明白に寸法に従って測り得るが、しかしおれは一人前の人間なりやというにいたっては、仕事をもって測るのでなく、思想をもって測るのではあるまいか。果たしてそうとすれば自分の心を測るノルムは果たしていかなるものなりや。またどこにありや。
 もしノルムにして自己以外にあるものならんには、自分の勝手かってにならぬことは確実である。たとえば牛肉屋に行き、 おれは人並みよりも大食であるといったからとて、一人前として五十もんめなり六十匁なりを持っては来ない、私は小食ですと遠慮したとしても、一人前の注文すれば牛肉はやはり三十もんめ である。おのれはろくな教育を受けなかったといったからとて、自分が一人前に足らぬぎょうをすれば世間は斟酌しんしゃく せぬ。私は最高教育を受けた者だといったからとて、一時の尊敬を受くるかは知らぬが、その人格にいかがわしきことがあれば、彼に対する尊敬は永続せぬ。学問は人並み以上でも人として果たして一人前なりやいなやはおのずから別問題である。

職業上の一人前と全人オールメンとしての一人前

 故に人をはかるについて、目方めかたをもってそれがし何貫なんがんときめることは出来る。たけをもってして某は何じゃくずん と定むることも出来る。そしてこの人の貫目かんめ、あの人の身長は人並みとか人並み以上とかまたは以下と判断することも出来る。それと同じく無形なることについても学問は人並み以上とか、談話は人並み以下とか、思想は人並みすぐれて高いとか低いとか、かく別々にはかることは出来る。こういう体格、知力、才能は根底において相互に関係があるかも知れぬ。たとえば英国の王立学士院では英国一流の学者を網羅してあるが、彼らの寸尺貫目すんしゃくかんめを測ると平均人よりはるかに以上に当たっている。この点より推測すると学問の出来るものは脳髄のうずいもよい。脳髄のよい者は体格も偉大にして肉附にくづきもよく大きいという関係があるかも知れぬ。
 しかし必ずしもそうとは断言されぬ。ナポレオンのごとく一代の豪傑にして身長の低い者もある。ことに学者中には頭脳ずのうの透明鋭利えいりな者にして肉体のこれに伴わぬものがたくさんある。ゆえに人の力を種々に区別し、そしていずれの力では人並み以上とか以下とか、個々別々に離すことは案外たやすいことで、また普通に行わるる方法である。専門家が世人せじんよりたっとばるるのもこれがためである。
 専門家というもあながち学問に限るのでない。いかなる芸、いかなる職業においてもある一方面に練習をくわすぐれた者は世に貢献こうけんすることが多い。その専門の道については、たしかに普通人の標準に比し一人前以上の仕事する人である。前に述べた芸人などの例はもっともく当たることであるが、これはいわば人を幾多いくたへんに切り、そのもっとも長じた所を一般的ノルムで測るのである。
 しかるに専門家中には、その専門に熱中ねっちゅうし、他の天稟てんぴん の力を発達せしめない者がたくさんある。そのおこたりたる力をもって測れば遠くノルムに及ばぬ者も間々ままある。すなわちかかる人は全人オールメンとして見れば一人前に足らぬ人である。おのれの職業については一人前の仕事をしたと称するも、人としては一人前の人ならぬ人が多い。学者などのうちにはほとんど人間失格者のごとき人がある。自分の専門の範囲については大家であるが、人間としてはまったく成っておらぬ場合も往々ある。むかし孔子こうしは、
君子くんしならず」
 といったが、学者はとかく器械化しやすい。ゆえに、世俗の人がややもすれば学者をぼんやりした人間失格者のごとくいう。しかし実地家じっちかの中にも同じあやまちにおちいるものが多い。すなわち実業家と称する人の中には自分の商売を進むるにするどく、その成功のためにはほとんど人倫をみだすもてんとして恥じざるのみか、かえってこれを誇りとするがごとき人をしばしば見受ける。かかるふうあるものは人間失格者としか思われぬ。
 おそらく人間として平均の調和をうしなえるものは、学者よりも実業家にかえって多いかと思われる。たとえていえば、人のうで身幹しんかんに比して何分なんぶんとか、たいてい一定した割合がある。この割合をえても不具ふぐであり、不足しても不具である。いわゆる世の実務家あるいは実業家などには の長過ぎる人があるとすれば、学者かんに短か過ぎる人のあると同然、両者ともに不具なりとのそしりはまぬがれまい。

要は人はぎょうなり

 かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一にん並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂にのぼらばよろしくしつにも入るを要する。しかしてこうがその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣ぞうけいは深さ高さによりて測り、たしかにそれがしは何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことをしたとしても、その人はやはり専門については一人前のぶんをなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一にん並みであるやいなやにいたっては疑問であるといわねばならぬ。
 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をしてしゅう すぐれたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分だいぶの相違があるであろう。今日こんにちのごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果こうかさえぐるを得ば人として生まれ来た甲斐かいありと信じ、仕事に重きを置いて人となりをかえりみぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師しごとしは、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。
「文は人なり」
 というが、人格を示すものに独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人をいては事もなくぎょうもない。一人前の仕事をげんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定しがたきものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。
 これをたとえていえば、ここに数多あまたうつわがあるとする。これらのうつわ――仮りに徳利とくりとすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一こくるれば小さきものは一しゃくも容れ得ぬ。しかしいかにしょうなるも玩具がんぐにあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼びす。してみれば徳利の徳利たる 所以ゆえんはある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡たかには大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴はくちでなければ、みな一人前とかぞえらるるであろう。
 しかるにここに大いに考うべき一条は各自が果たして各自の容積いっぱいに水を含めるやいなやの問題である。四斗樽とだるだいそな えてもからなれば四升樽しょうだるにも劣る。二合徳利ごうどくりでもいっぱいにつれば一入りの空徳利からどくりさる。人もどれほど「王佐棟梁おうさとうりょう」の才であっても、これを利用もせず懶惰らんだに日を送れば、小技しょうぎ小能しょうのう なるいわゆる「斗筲とそうひと」で正直につとめる者に比して、一人前と称しがたく、ただだいなる「行尸走肉こうしそうにく」たるに過ぎぬ。してみれば一人前の仕事とは各自がめいめい天賦てんぷの才能と力量のあらん限りを尽すことであろう。果たしてそうとすれば一人前の仕事を計る基準は当事者めいめいに存在するもので、おのれ以外に求むべきものでなかろう。すなわち己れの仕事を計るものは己れ自身である。英国の大詩人テニソンの句に、
Self-reverence, self-knowledge, self-control, ――
These three alone lead life to sovereign power.
自尊じそん自知じち自治じちの三は、一しょうみちびいて王者の位に達せしむるなり)
  と。太古ギリシアの神託しんたくに、
おのれをれ」
 とありしは自己の性質能力をさとり、もって自己の使命の何たるを認識することで、世には人をらざるをうれうる者がある。人のおのれを知らざるをうれうる者はさらに多いが、おのれを知らざるをうれうる者ははなはだ少ない。
冒頭ぼうとうにいうがごとく僕は永く自分の身にかえりみて、我は果たして一人前の仕事をし終えたるか、我は果たして一人前の人となりしかという問題について、いささか所感を述べたが、これが解決は遺憾いかんながらいまだ述ぶることは出来ぬ。恐らくは何人なんびとといえども、おのが身にかえりみてこの問題を提出したならば、確固かっこたる答えをし得るものはあるまいと思う。もし為し得る人があるとすればもって世人せじんに示して欲しい。僕がここに自分のまよいの径路けいろを述べたのは、同じ問題に苦しめる人の参考にきょうしたいからである。
(新渡戸稲造『自警録』から、「第二章 一人前の人と一人前の仕事」を引用)

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底本:「自警録――心のもちかた」講談社学術文庫、講談社
   1982(昭和57)年8月10日第1刷発行
   2002(平成14)年8月20日第31刷発行
底本の親本:「自警録」実業之日本社
   1929(昭和4)年発行
入力:ゆうき
校正:田中哲郎
2010年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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