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江戸の火消・江戸の纏/国立国会図書館蔵「月岡芳年/烟中月」・国立国会図書館蔵「江戸の花子供遊び」より
《ページ内目次》
 江戸町火消の歴史   
 いろは四十八組と本所深川十六組   
 さ・え・お・ね・南二組の図柄   
 ちょっと知識   
  総目次   
  • 火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があります。江戸では大火事が多く火消しの働きぶりが華々しかったことと、江戸っ子は気が早く派手な喧嘩が多かったことを指した言葉とされます。
  • 江戸では、関ヶ原の戦い翌年の慶長6年〈1601年〉から、大政奉還の行なわれた慶応3年〈1867年〉に至る267年間に49回もの大火が発生しました。大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、特に嘉永3年〈1851年〉から慶応3年〈1867年〉までの17年間では506回もの火事が発生したとされます。Wikipedia「江戸の火事」 
  • こうした度重なる大火などを契機として、武士によって組織された武家火消や、町人によって組織された町火消などの制度が設けられ、その中の町火消は、「いろは 四十八組しじゅうはちくみ 」と、東を担当する「本所・深川十六組」の都合64組が江戸の町の火消しに当たりました。
  • ここでは、江戸時代から明治初期の錦絵などに残された 江戸の火事 火消ひけしまとい などを見てみます。
《 江戸町火消の歴史 》
  • 享保3年10月18日〈1718年11月10日〉
    時の江戸南町奉行・大岡越前守忠相ただすけ (1677-1752)から各名主に町火消組織の命が伝えられ、同じ年の12月4日〈1719年1月23日〉に町火消組合が創設された。なお、これより前の万治元年12月28日〈1659年1月20日〉に、町火消制度の始まりとみられるお触れが出されたことがある。(『江戸三火消図鑑』)
  • 享保4年4月〈1719年5月〉
    江戸町火消が「いろは組」に組み分けされる(『武江年表』)。(この時は、四十七組)
    江戸町火消いろは組はじまる」 武江年表(国立国会図書館) 
  • 享保5年8月〈1720年9月〉
    町火消の纏にその組の方域を記した長さ七尺の吹き流しを下げ、また、掟を記した幟を副えることとなった(『武江年表』)
  • 享保15年1月〈1730年2月〉
    江戸町火消四十七組を大組十組とし、後に小組に「本組」が追加されて小組は四十八組となった。纏の吹き流しに替えて「ばれん」を付けることになった。大纏、小纏ともに銀箔であった(『武江年表』) また、本所・深川十六組を南組、中組、北組の三組の大組のもとに統括した(『江戸三火消図鑑』)
  • 元文3年〈1738年〉
    四番組と七番組を縁起が悪い数として除き、五番組と六番組に組み入れ、大組を都合八組とした(『江戸三火消図鑑』)。 これで大組は、本所・深川の三組と合わせて都合十一組となった。
《 江戸町火消の組編成 》
大組、十一組。
小組、いろは四十八組と本所深川十六組の都合六十四組。
一番組(五組)
い よ は に 万
二番組(七組)
ろ せ も め す 百 千
三番組(七組)
て あ さ き ゆ み 本
五番組(九組)
く や ま け ふ こ え し ゑ
六番組(六組)
な む う ゐ の お
八番組(四組)
ほ わ か た
九番組(四組)
れ そ つ ね
十番組(六組)
と ち り ぬ る を
南組   (五組)
一 二 三 四 六
中組   (六組)
五 七 八 九 十 十六
北組   (五組)
十一 十二 十三 十四 十五
*(括弧)内は小組の数。

南・中・北の各組は、隅田川の東側の本所・深川地区に位置する。喜田川守貞の 守貞謾稿 には、『大河以東にも党を定め夫を役す。これには数字を用ふ』との記述がある。

地図で見る「江戸町火消受持区域」 

いろは四十八組には「へ、ら、ひ、ん」の文字がない。これは、語呂の悪さなどを理由に除かれたといわれ、代わりに「百、千、万、本」の字が使われている。

《編集注 ①》
「え組」及び「か組」の表記について、掲載した絵図の中には「江組」「加組」と表記しているものがあるが、記号は「ひらがな」を用いると記す文献があることから、この表および、全てのページの説明の部分ではひらがな表記とした。
 「国字〈ひらがな〉を以て記号とす。呂以下書風此形に准ず」『喜田川守貞/ 守貞謾稿  』
《編集注 ②》
 本所深川の組み分けについて、当サイトの制作時点での調査で、纏の一覧が載っている資料としては一番古い「万世江戸町鏡」(1835年)では、中組を7組、北組を4組とし、「中組」を「五、七、八、九、十、十一、十六」、「北組」を「十二、十三、十四、十五」としている。
 これ以降の、刊行年が明らかな 1851 年以降の4つの資料と、刊行年未詳の2つの資料では、上記の表の通りとなっている。
《さ組、え組、お組、ね組、南二組の図柄について 》
  1. さ組、え組、お組、ね組、南二組について二つの図柄が認められた。これらは、あくまでも当サイトとして現時点で蒐集できた資料に基づくものであり、分析も何らかの結論を導くものではないが、参考として示す。
  2. 下記のような図柄が、1805年〈文化2年〉の江戸火消持場所並纒之図  1835年〈天保6年〉の万世江戸町鏡  1838年〈天保9年〉のいろは組纒づくし  1851年〈嘉永4年〉の江都土産纒雛形年代不詳の町火消纒装束の図   などに見られ(南二組が載っていないものもあり)、1856年〈安政3年〉の泰平纏一覧   では南二組のみ[3]の図柄となっている。
  3. 一方、1853年〈嘉永6年〉の歌川芳兼・新版子供纏あそび  1858年〈安政5年〉の歌川芳虎・江戸の花子供遊び  1862年〈文久2年〉の江戸の花名勝会  1866年〈慶応2年〉の伊呂波組纏鑑   豊原国周・見立いろはあわせ  、1941年〈昭和16年〉刊の浮島彦太郎による「江戸三火消図鑑」などでは下記の図柄が採用されている。
  4. 上記のように、さ組、え組、南二組については 1856年〈安政3年〉の泰平纏一覧   で混在が見られるが、1853年〈嘉永6年〉以降で差し替わっているように思えることから、1853年頃を境にデザインが変わったのかも知れない(調査中)。
  5. お組の図柄で天辺に円形のあるものとないものが認められた。1856年以前では、1835年に「あるもの」が認められたが、他は「ないもの」となっている。1862年以降では全て「あるもの」になっている。
  6. ね組の図柄で下記の違いが認められた。1838年以前では「寸」の字を上に配した図柄となっているが、1851年以降では横に配したものとなっている。なお、「寸」の字は、持ち場の巣鴨に因んだ「す」の本字を用いたか(『江戸三火消図鑑』)
《 ちょっと知識 》
  • 江戸町火消「いろは四十八組」の、「い組」の纏は「芥子けしの実にます 」の図案とされることもあり、”消します” の洒落で大岡越前守が命名したとの説もある。
  • ただし、江戸時代の様々な出来事などを記し、近世風俗の百科事典的意味を持つ大著とされる 守貞謾稿   では「方円」と記すのみで由来などの記述はない。また、「江戸三火消図鑑」(復刻版:1988年〈昭和63年〉刊(原本:1941年〈昭和16年〉刊))でその解説を書いた風俗史家の谷峯藏は、『纏の形象図の本は幕末までに何冊も刊行され〈略〉ながら、その名称・由来をとどめた記録は一切ない』としている。
[参考] 東京消防庁  
 江戸の火消ひけし・江戸のまとい 《 総目次 》
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Last updated : 2021/07/25