[6] 江戸時代の文献に見る「七草」「粥」「七草爪」など
= 春の七草・春の七種 =

  春の七草 
  七草がゆの作り方 
  秋の七草 
  秋の七草の家紋 
  七草の英名 

 春の七草・春の七種

 はるのななくさ
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春の七草画像「せり なずな おぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」(「おぎょう」は「ごぎょう」とも)

[6] 江戸時代の文献に見る「七草」「七種の粥」「小豆粥」「七草爪」など

  • 江戸幕府によって公式行事とされ、その後明治に入って廃止された「五節供・五節句」ですが、江戸時代後期に書かれた『 守貞謾稿 もりさだまんこう 』という書物には、江戸時代の「七草」の様子やそれにまつわる行事などの様子が描かれています。
    注:『守貞謾稿もりさだまんこう』は、喜田川守貞きたがわもりさだ による江戸時代の様々な風俗や事物が記された全35巻に及ぶ書物で、天保8年・1837年 から書き始め、日本にほんが明治の時代へと入る直前の慶応3年・1867年 に脱稿。実に30年間に亘って様々な事物習俗を江戸と京坂(京都・大坂)の違いを交えて書き綴り、また、「追考」「追書」として不明であった点を補ったり、誤謬点の訂正を行ったりしている。 「近世風俗史の基本文献」とも評される。
    1.  江戸時代後期の『守貞謾稿』に見られる「七種の粥」「七草爪」など
      「守貞謾稿 巻之二十六(春時)」

      正月七日
       今朝、三都ともに 七種 ななくさ かゆ を食す。[注:三都とは、江戸、京都、大阪のこと]
       七草の歌に曰く、 せり 、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すゞな、すゞしろ、これぞ七種。以上を七草と云うなり。しかれども、今世、民間には一、二種を加うのみ。
       三都ともに六日に困民・小農ら市中に出て、これを売る。京坂にては売詞に曰く、吉慶のなずな、祝いて一貫が買うておくれ、と云う。一貫は、一銭を云う戯言なり。江戸にては、なずな/\と呼び行くのみ。
       三都ともに六日これを買い、同夜と七日暁と再度これをはやす。はやすと云うは、 まないた になずなを置き、その傍に薪・庖丁・火箸・ 磨子木 すりこぎ 杓子 しゃくし ・銅杓子・菜箸等七具を添え、 歳徳神 としとくじん の方に向い、まず庖丁を取りて、俎板を拍ち 囃子 はやし て曰く、「 唐土 とうど の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに、なずな 七種 ななくさ 、はやしてほとゝ」と云う。江戸にて「唐土云々渡らぬさきに、七種なずな」と云う。残り六具を、次第にこれを取り、この語をくり返し唱えはやす。
       京坂は、この なずな 蕪菜 かぶな を加え煮る。江戸にても、小松と云う村より出る菜を加え煮る。けだし、薺をわずかに加え煮て、余る薺を茶碗に れ、水にひたして、男女これに指をひたし爪をきるを、七草爪と云う。今日、専ら爪の 斬初 きりぞめ をなすなり。京坂には、この行をきかず。ある書に曰く、七草は、七づゝ七度、合せて四十九 たた くを本とす。
       天武天皇十年 [注:681年] 正月七日、親王・諸王を 内安殿 うちのあんどの に召し、諸臣をして 外安殿 とのあんどの に侍らせ、 置酒 おおみきをめ して うたまい を賜わらしむ、云々。今日の 節会 せちえ 、これが始めなり。
       宇多天皇、 寛平 かんぴょう 二年 [注:890年] 正月 上子日 じょうねのひ 内蔵寮 くらりょう 内膳司 ないぜんし に勅して、若菜を献ぜしむ。その後、あるいは十二種あるいは七種と云々。しかれば、七種のかゆを食すは、上子日を本とするなり。中古以来、七日を用う。また の日の遊びと云いて、野外に出て小松を きて、 千歳 せんざい を祝いし。遊ぶことの始めは、花山天皇 寛和 かんな 元年 [注:986年] 、円融上皇紫野に遊び、船岡山に到りて、野外に まく を張り、小松を折りて、沙上に立ちて宴を設く。これを 子日遊 ねのひあそび びと謂う、云々。

       江戸も昔は、十六日に門松・ 注連縄 しめなわ 等を除き納む。寛文二年 [注:1662年] より、七日にこれを除くべきの府命あり。今に至りて、七日これを除く。これ火災しば/\なる故なり。京坂は、今も十六日にこれを除く。
       江戸時代後期に書かれた『守貞謾稿』に見られる「七種の粥」「七草爪」など
      『守貞謾稿 巻二十六(春時)』より
       正月七日
       喜田川守貞
       国立国会図書館所蔵

    1.  江戸時代後期の『守貞謾稿』に見られる小正月の「小豆粥」など
      「守貞謾稿 巻之二十六(春時)」

      正月十五日、十六日 俗に小正月と云う。
       元日と同じく、戸をとざす。また三都ともに[注:三都とは、江戸、京都、大阪のこと] 、今朝(十五日)、 赤小豆 あずき 粥を食す。京坂は、このかゆにいささか塩を加う。江戸は、平日かゆを食せざる故に粥を好まざる者多く、今朝のかゆに専ら白砂糖をかけて食すなり。塩は加えず、また、今日の粥を余し蓄えて、正月十八日に食す。俗に十八粥と云う。京坂には、このことこれなし。
      (略)
       今日粥を食すこと、始めは、宇多天皇寛平二年(注:890年)正月十五日、七種の粥を献ず。白穀、大豆、赤小豆、粟、栗、稗柿、小角豆なり。これより先、進献定めず。ここに至りて、勅して、今より毎歳供すと云々。古は、今日も七種のかゆを食せしなり。今、あづきがゆも上の七種の一にて、古の遺風なり。けだし今俗は、七種・七草、和訓同じき故これを混ず。
       江戸時代後期に書かれた『守貞謾稿』に見られる「小豆粥」のこと
      『守貞謾稿 巻二十六(春時)』より
       正月十五日、十六日
       喜田川守貞
       国立国会図書館所蔵

    1.  江戸時代後期の『守貞謾稿』に見られる「粥」のこと
      「守貞謾稿 後集 巻之一(食類)」

       
       その炊法、飯よりは水をはなはだ多くし柔らかなるものなり。
       今世、右の水を多くし炊きたるを白粥と云う。これ茶がゆに対す言なり。茶がゆは専ら冷飯に煎茶を多くし、塩を加え再炊するものなり。白糜には塩を加えず。
      (略)
       正月七日は三都ともに七草粥、十五日は小豆糜なり。京坂、あづきがゆには塩を加え炊き食す。江戸は塩を加えず、炊後、専ら霜糖を加え食す。これ常に粥を食し馴れざるの故に、糖味を仮りてこれを食すなり。
       江戸時代後期に書かれた『守貞謾稿』に見られる「粥」のこと
      『守貞謾稿 後集 巻之一(食類)』より
       粥
       喜田川守貞
       国立国会図書館所蔵

  • 次に、「七草たたき」「 薺打 なずなうち 」「七草の囃子」「七草を囃す」などと言われる風習について見てみましょう。
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