[2] 1月7日は人日(じんじつ)の節句
= 春の七草・春の七種 =

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 春の七草・春の七種

 はるのななくさ
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春の七草 「せり なずな おぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」(「おぎょう」は「ごぎょう」とも)

[2] 1月7日は、五節句の一つ「 人日(じんじつ)の節句(せっく) 」です。 [五節句とは ▶]
この日は「 七草(ななくさ)」「七草の節句」「七草の祝い」などとも言われます。

  • 1月7日は、五節句の一つ「 人日(じんじつ)の節句(せっく) 」です。
  • 「人日(じんじつ) 」は文字通り「人の日」で、古代の中国に、元日からそれぞれの日に獣畜を当てはめて占う風習があり、七日目には「人」を占い、「人日」となったとされます。
  • それぞれの日には占う獣畜を殺したりせずに大切にし、七日の「人日」には人に刑罰を与えず、その日を人を大切にする節句にしたとも言われ、それにまつわる中国の風習が日本(にほん)に伝わったとも言われているようです。
  • ここでは、正月七日の「人日」の儀式などについて記した文献を見てみます。
『荊楚歳時記(けいそさいじき)』
・6世紀の半ばに中国で成立
・中国、梁の宗懍(そうりん)

  • 6世紀の半ばに、中国、梁の宗懍(そうりん)が著した年中行事記の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』には、『正月七日を人日と為す』とあり、また、魏の董勛(とうくん) の『問礼俗』からの引用として、『正月一日を鶏とし、二日を狗(いぬ) 、三日を羊、四日を猪、五日を牛、六日を馬、七日を人とする。(略)一日は鶏を殺さず、二日は狗、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬を殺さず、七日は刑を行わず』というようなことも書かれています。
  • この『荊楚歳時記』には、『正月七日を人日と為す』に続けて『七種の菜を以て、 羹(あつもの)を為(つく)る』とあり、これが日本の1月7日の「七草がゆ」の起源ともされます。
  • 注: 羹(あつもの) とは、野菜や魚肉を熱く煮た吸い物を言い、「七草」に関して出てくる場合は「菜類」を入れた物のことを指します。
正月七日為人日以七種菜為羹
正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、 羹(あつもの)を為(つく)る
 『荊楚歳時記』に見られる「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、羹(あつもの)を為(つく)る」の文字。
『荊楚歳時記』(梁宗懍撰)
(廣漢魏叢書 明刊より)
 国立国会図書館蔵
『荊楚歳時記』は、6世紀半ばごろ(日本では古墳時代)の中国揚子江中流域地方を中心とした年中行事記。民間本としては現存最古とされ、日本へは8世紀の奈良時代に伝わったとされる。
  • 注:「人日」を決めたのは中国前漢代の東方朔(とうほうさく)とするものが散見されますが、大正11年・1922年 に永尾竜造によって書かれた、日本人(にほんじん)による中国民俗研究書の「支那民俗誌」によれば、「こじ付けに相違ないが、(中国では)昔からこの日を人日と称して、この日天気晴朗であれば、一年中人類の幸福であると云い伝えられて来ている」としています。
  • 注:また、占いに割り当てた獣畜などについては地方で多少の違いがあるとしながら、「一鶏 二鴨 三猪 四羊 五黍 六麦 七人 八穀 九果 十菜」、「一鶏 二鴨 三狗 四猫 五猪 六羊 七人 八麦 九果 十菜」などを上げ、「兎に角人日を最も大切な日としている」としています。
  •  『支那民俗誌』に見られる「人日」についての文章(部分)
    『支那民俗誌. 上巻』 永尾竜造
     大正11年・1922年
     国立国会図書館蔵
『歌林四季物語(かりんしきものがたり)』(鴨長明四季物語)
・鎌倉時代(1185年頃〜1333年)初期の成立
・推古天皇5年〈西暦597年〉についての記述が見られる。
・鴨長明(かものちょうめい)(仁平3年・1153年〜建保4年・1216年)

  • 日本での「人日」の風習は、次のページでも紹介する 鴨長明(かものちょうめい)の「 歌林四季物語(かりんしきものがたり)」に、「なゝくさのみくさ集むること人日菜羹(さいこう)を和すれば一歳(ひととせ) の病患を逃るる」「とよみけかしきやひめの五年に事起こりて」などとあります。
  • この「とよみけかしきやひめの五年」は推古天皇5年〈西暦597年〉のことで、これによれば、日本では に人日の行事が始まったことになります。

なゝくさのみくさ集むること人日菜羹(さいこう)を和すれば一歳(ひととせ)の病患を逃るると申ためし古き文(ふみ) に侍るとかや。此事三十余り四柱に当たらせ給ふ。とよみけかしきやひめの五年に事起こりて、都の外の七つ野とて七所の野にて一 草(くさ)づつを分ち採らせ給ふけり。なずな、おぎょう、すゞしろ、仏のざ、川な、くゝたちとかや申すなるべし。
注:「とよみけかしきやひめ」は「豊御食炊屋姫」で「推古天皇」のこと。
「とよみけかしきやひめの五年」は「推古天皇5年」で西暦597年。
 ここでは、6種類の植物名が上げられている。
 鴨長明『歌林四季物語』に見られる「ななくさ」の内の六種類の植物
『歌林四季物語』 巻第一 春部
 鴨長明
(貞享3年・1686年版)
 国立国会図書館蔵
『歌林四季物語(かりんしきものがたり) 』は、鎌倉時代に鴨長明(仁平3年・1153年〜建保4年・1216年)よって書かれた四季の公事を随筆風に記した書。
『 皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』
・延暦23年・804年の記録

  • 「菜の 羹(あつもの)」については、日本 (にほん) の「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう) 」という、皇大神宮の行事・儀式などについて記した文書の、延暦23年・804年の記録として『七日 新菜御羹作奉(わかなのおあつものつくりたてまつる)』という記述としても見られます。
七日  新菜御羹作奉
七日  新菜(わかなの) 御羹(おあつもの) 作(つくり) 奉(たてまつる)
 『皇太神宮儀式帳』に見られる「七日 新菜御羹作奉(わかなのおあつものつくりたてまつる)」の文字。
『皇太神宮儀式帳』
(群書類従. 第一 より)
 国立国会図書館蔵
『皇太神宮儀式帳』は、延暦23年・804年に伊勢太神宮司より神祇官に提出された伊勢内外宮の儀式帳。
『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』は、江戸時代後期に塙保己一(はなわほきいち)が編纂し刊行した叢書。
『 公事根源 ( くじこんげん ) 』
・応永30年・1423年頃の成立
・延喜11年・911年についての記述が見られる。
・一条兼良(いちじょうかねよし)(応永9年5月7日〈1402年6月7日〉- 文明13年4月2日〈1481年4月30日〉)

  • 日本の応永30年・1423年頃に成立したとされる『 公事根源 ( くじこんげん ) 』という書物に、「延喜11年正月七日に後院より七種の若菜を 供 ( くう ) ず」と記され、延喜11年・911年 の 醍醐天皇 ( だいごてんのう ) の時代の宮中での『七種』を食べる行事について分かります
  • 「正月七日に七種の菜羹を食べれば万病なく邪気も除ける」という趣旨の表現も見られます。
延喜11年正月七日に後院より七種の若菜を 供 ( くう ) ず
 『公事根源』に見られる「延喜11年正月七日に後院より七種の若菜を供ず」の文字。「万病なし」「邪気をのぞく」の文字も
『公事根源』 一条兼良
 国立国会図書館蔵
 [元和年間(1615年〜1624年)版]
『公事根源』は、室町時代の応永30年(1423年)頃に成立した有職故実書。

注:延喜11年・911年は 醍醐天皇 ( だいごてんのう ) の時代。
注:醍醐天皇は平安時代の天皇(元慶9年・885年〜延長8年・930年)
『日本歳時記(にほんさいじき) 』
・貞享5年・1688年成立
・貝原益軒刪補、貝原好古編録

  • 江戸時代の元禄になる前年の貞享5年・1688年 に、儒学者で本草学者の 貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂に携わって書かれた『日本歳時記(にほんさいじき) 』に、「(正月)七日 人日という。七種の菜粥を製し食う」の文字が見られます。
七日  人日 ( じんじつ ) という(説前に見えたり)。又 霊辰 ( れいしん ) ともいへり。人は万物の霊なれば、かくいふとかや。 和俗 ( わぞく ) にいへる 五節供 ( ごせっく ) の 初 ( はじめ ) なり。今日 七種 ( ななくさ ) の 菜粥 ( さいじゅく ) を製し 食 ( くら ) ふ。 七種菜 ( ななくさな ) といふは、歌に、
せり なづな 五形 はこべら 佛の座 すヾな すヾしろ これぞ七くさ
 『日本歳時記』に、「七日 人日」の文字が見られ、また、「これぞ七くさ」の文字も見られる
『日本歳時記』 (貞享5年・1688年)
 貝原益軒刪補、貝原好古編録
 国立国会図書館蔵
『日本歳時記』は儒学者で本草学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が指導し、甥の貝原好古(かいばらよしふる)によって編纂された。
『 東都歳時記 ( とうとさいじき ) 巻之一 春之部』
・天保9年・1838年の成立
・斎藤月岑(さいとうげっしん)(文化元年・1804年〜明治11年・1878年)

  • 江戸時代の、天保9年・1838年に成立した『 東都歳時記 ( とうとさいじき ) (江戸歳時記)』にも、「人日」の文字が見られます。
  • 「人日」は、江戸幕府によって「 式日 ( しきじつ ) 」と制定され、「七草」は公式行事として行われました。
  • 『東都歳時記』には、「御祝儀諸侯御登城」の文字が見られ、この日、諸侯は江戸城へ登城したことがわかります。  〔詳細後述 - 公式行事の「五節句」、そして廃止、現代へ ▶〕
 正月七日 若菜(人日) 御祝儀諸侯御登城。今朝貴賤 七種菜粥 ( ななくさながゆ ) を食す。
 『東都歳時記』に見られる『七日 若菜(人日)御祝儀諸侯御登城 今朝貴賤七草菜粥を食す』の文字
『東都歳時記』 斎藤月岑
(天保9年・1838年)
 国立国会図書館蔵
  • では、「七種」とはどのような種類なのでしょうか。「荊楚歳時記」や「皇太神宮儀式帳」には具体的な名前は出て来ませんが、次のページでは、鎌倉時代からの文献に登場する「七種」の種類を見てみます。
  • 現代に伝わる形での七草の表現が見られるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
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Last updated : 2025/12/26