[5] 江戸時代の公式行事の「五節句」、そして廃止、現代へ…
= 春の七草・春の七種 =

  春の七草 
  七草がゆの作り方 
  秋の七草 
  秋の七草の家紋 
  七草の英名 

 春の七草・春の七種

 はるのななくさ
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春の七草 「せり なずな おぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」(「おぎょう」は「ごぎょう」とも)

[5] 江戸幕府によって公式行事となった「五節句」、そして廃止、そして現代へ…

  • 人日じんじつ」を含む「五節句」は、江戸幕府によって「 式日しきじつ 」と定められ、江戸時代初期から幕府の公式行事として行われたということです。
    [ 注:「節句」は、本来の用字は「節供」とする説があります。
    ※下記、柳田国男「年中行事覚書」参照 ]
    1. ・平成4年・1992年刊
      《江戸幕府の公式行事に制定された『五節供』》
      公武行事歳時記こうぶぎょうじさいじき「はしがき」及び「人日」の項より 窪寺紘一

       天正十八年・1590年八月朔日ついたちに徳川家康が江戸城に入城したことをもって、江戸幕府は八月朔日の八朔はっさくを公式の式日とするとともに、宮中の五節会ごせちえに対応させて人日じんじつ上巳じょうし端午たんご七夕しちせき重陽ちょうようを五節供に制定した。
       このことから、七草節供は全国的に行われるようになった。 この日諸侯は江戸城に登城し、貴賤七草の粥を祝食した。
    1. ・昭和30年・1955年刊
      《江戸幕府の初期に公式行事となった『五節供』、及び「節供」の文字について》
      年中行事覚書ねんじゅうぎょうじおぼえがき 柳田国男  年中行事覚書を青空文庫で読む
         節句は節供が正しい

       節句というようなおかしな当て字が、普通になって来たのはそう古いことではない。江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたという話だが、その頃を境として、以前は大抵皆節供せっくと書いており、節句せっくと書く者はそれから段々多くなって来た。節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では神供じんくとか仏供ぶつく とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた。(略)
  • 江戸時代に書かれたいくつかの文献によって、「七種ななくさ 」が江戸幕府の公式行事であったことが分かります。江戸城での「祝儀」で、諸侯が登城して行われたということです。
    1. ・元禄10年・1679年成立
      《江戸城で行われた『七種の御祝儀』》
       年中行事御城之儀式ねんじゅうぎょうじおしろのぎしき
       正月七日
       七種之御祝儀。
       『年中行事御城之儀式』に見られる『正月七日。七種之御祝儀』の文字
      『年中行事御城之儀式』
       (元禄10年・1679年)
        菊本賀保 『国花万葉種』

      「江戸年中行事」
       (昭和2年・1927年刊)より
       国立国会図書館所蔵

    1. ・享保2年・1717年成立
      《江戸城殿中で行われた『七種の祝儀』》
      諸國年中行事しょこくねんじゅうぎょうじ
       正月七日
       江戸。御殿中にて七種の御祝儀あり。
       『諸國年中行事』に見られる『江戸。御殿中にて七種の御祝儀あり』の文字
      『諸國年中行事』
      (享保2年・1717年)
       操巵子

      「民間風俗年中行事」
       (大正5年・1916年刊)より
       国立国会図書館所蔵

    1. ・享保20年・1735年版
      《江戸で行われた『七種の祝儀』》
      江府年行事えふねんぎょうじ
       正月七日
       七種御祝儀、世俗に云ふ五節句始也、七種の菜粥いわふ、七種は、せり、なづな、五ぎょう、はこべら、ほとけの座、すゞな、すゞしろ、これぞ七草
       『江府年行事』に見られる『七種御祝儀、世俗に云ふ五節句始也、七種の菜粥いわふ』の文字
      『江府年行事』
      (享保20年・1735年版 『続江戸砂子』)
       菊岡沾凉

      「江戸年中行事」(昭和2年・1927年刊)より
       国立国会図書館所蔵

    1. ・享和3年・1803年版
      《江戸で行われた『七種の祝い』》
      『増補江戸年中行事』
       正月七日
        七種祝ふ 七種はやす 七種粥を祝ふ
       『増補江戸年中行事』では、「正月七日 七種祝ふ 七種はやす 七種粥を祝ふ」としている
      『増補江戸年中行事』
      (出版年不明)

      国立国会図書館所蔵
       『増補江戸年中行事』では、「正月七日 七種祝ふ 七種はやす 七種粥を祝ふ」としている
      『増補江戸年中行事』
      (享和3年・1803年版より)
      「江戸年中行事」
      (昭和2年・1927年刊より)
      国立国会図書館所蔵

    1. ・天保9年・1838年版
      《正月七日は、五半時いつつはんどき(現在の朝九時頃)に、麻裃あさかみしもの礼装で七種の御祝儀のために登城した》
      武家年中行事ぶけねんじゅうぎょうじ
       正月七日 五半時のしめ麻
       七種爲御祝儀御三家同御嫡溜詰加週越前家等出仕、満石以上隠居御禮、
       『武家年中行事』に見られる『正月七日は、(現在の)朝九時頃、麻裃の礼装で七種の御祝儀のために登城した』の文字
      『武家年中行事』
       (天保9年・1838年版 『殿居嚢とのいぶくろ』)
       大野広城

      「江戸年中行事」(昭和2年・1927年刊)より
       国立国会図書館所蔵
      五半時いつつはんどき のしめ 麻」は、
       熨斗目に麻裃の礼装で、
       現在の朝9時頃に登城したことを表す。

    1. ・天保9年・1838年成立
      《正月七日・諸侯が(江戸城に)登城し七草菜粥を食した》
      東都歳時記とうとさいじき(江戸歳時記) 巻之一 春之部』
       正月七日 若菜(人日)
       御祝儀諸侯御登城。今朝貴賤 七草菜粥ななくさながゆを食す。
       『東都歳時記』に見られる『七日 若菜(人日)御祝儀諸侯御登城 今朝貴賤七草菜粥を食す』の文字
      『東都歳時記』
      (天保9年・1838年)
       斎藤月岑 
       国立国会図書館所蔵

    1. ・嘉永4年・1851年版
      《江戸城で行われた『七種の祝儀』》
      東都遊覧年中行事とうとゆうらんねんじゅうぎょうじ
       正月七日
       若菜の御祝儀、諸侯御登城。今暁貴賤七種を拍はやし七種粥を食す
       『東都遊覧年中行事』に見られる『七日 若菜の御祝儀、諸侯御登城。今暁貴賤七種を拍はやし七種粥を食す』の文字
      『東都遊覧年中行事』
      (嘉永4年・1851年版)
       幽篁庵 編撰

      「江戸年中行事」(昭和2年・1927年刊)より
       国立国会図書館所蔵

    1. ・明治38年・1905年成立
      《「江戸の武家は七種までは新年の式務に忙しかった」とする記述》
      江戸府内絵本風俗往来えどふないえほんふうぞくおうらい菊池貴一郎(芦乃葉散人・四代目歌川広重)
       七種ななくさ
       正月もはや七草となるや、町家は家業に従事するより心に ひま なく、武家は七種までは新年の式務にせわしく、七種過ぎより追々平務ふだんに復す。六日の宵は家々の古式、後の世に到りては空しきことも多かるめれども、かわらぬ御代と祝し参らす当時なるまま、御台所掛りにては紋付小袖に麻上下を着し、遠土とおどの鳥の渡らぬ先より、恵方に向かい若草を打ちはやす。ストトントン、戸々に響く。この日門の松飾り・〆縄は取り払い、翌七種ななくさは若菜のかゆとうべけるは、当日の祝なりける。
      ・明治38年・1905年刊
      江戸府内絵本風俗往来 菊池貴一郎(芦乃葉散人・四代目歌川広重)
       『江戸府内絵本風俗往来』の「七種」の項目。明治38年・1905年刊 菊池貴一郎(芦乃葉散人・四代目歌川広重)
       『江戸府内絵本風俗往来』に見られる七種を囃す図。明治38年・1905年刊 菊池貴一郎(芦乃葉散人・四代目歌川広重)
      『江戸府内絵本風俗往来』より「正月六日の夜の七種の儀式の図」
      「御台所掛りにては紋付小袖に麻上下を着し、遠土の鳥の渡らぬ先より、恵方に向かい若草を打ちはやす」

  • この、江戸幕府による「五節供」の公式行事としての制定は、「七草粥」などの風習が武家から民間にも広まって行くきっかけとになり、次第に一般にも定着したとされます。
  • ただし、江戸幕府が決めた「式日」は、明治時代に入って暦を「太陰太陽暦」から「新暦(太陽暦・グレゴリオ暦)」に変えることに伴って廃止されました。
    1. ・明治7年・1874年刊
      《五節を廃止する布告》 明治6年(1873年)1月4日 太政官布告
      布告類編. 明治6年 巻1より
         

      五節ヲ廢シ、祝日ヲ定ム


         ○儀式
       第一号
        今般改暦に付き、人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節を廃し
       明治六年(1873年)布告の、「人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節を廃し」の文字
      『布告類編. 明治6年 巻1』
       (明治7年・1873年)
       国立国会図書館所蔵

  • 古くから宮中を中心に行われてきた「七草」の風習は、江戸幕府では公式行事とされ、明治政府になってからは公式行事としては廃止されましたが、その風習は広く民間に残り現在に至っています。
  • 現代の七草の風習やその種類は、地域によって違いもあると言うことですが、6日の夜に厄を払うお唱えをしながら七草をたたき、7日の朝に、たたいた七草を入れたお粥を炊いて神様に供えてから家族で食べ、その年一年の無病息災と五穀豊穣を祈るものとされます。
  • 江戸時代に書かれた文献には、六日に七草を買い、六日の夜と七日の暁の二度、まな板の脇に薪・庖丁・火箸・擂り粉木・杓子・銅杓子・菜箸などの七具を添え、 歳徳神としとくじん の方を向いて囃子詞を唱えながら七草を七度、合わせて四十九回たたいたとあります。 [次ページ参照]
  • また、江戸時代に民間で使われたのは一、二種で、江戸では「なずな」に「小松菜」を加え、京都・大阪では「なずな」に「かぶ」を加えたとあります。
    • この文献に見られる1月7日のその他の風習として、「 七草爪ななくさずめ」と言って、余ったなずなを茶碗に入れて水に浸し、これに指を浸して爪を切り、爪の斬初きりぞめ としたとあります。この日に爪を切ると、邪気を払うことが出来て一年間風邪を引いたり病気になったりせず、また、一年中、日を選ばずに爪切りをすることが出来るとされます。
    • この、1月7日に爪を切る風習は、古代の中国では、この日に鬼車鳥きしゃちょう(「きしゃどり」とも)という鳥がたくさん飛び、この鳥が鳴くと凶事の前兆でこの鳥が人家に入ると凶事があり、人の爪を好むので、人々はこの夜、爪を切って庭に埋めたとされます。
    • この鬼車鳥の言い伝えが、「夜爪を切るな」という俗信の根拠の一つにもなっているとも言われます。
  • 現在の「七草粥」は、一般的には新暦の1月7日に行われますが、元々旧暦の正月は今の2月頃で、そのころになると厳しい寒さの中にも春の陽射しも感じられ始め、野草も芽吹き始める頃だったのでしょう。野に芽吹く若菜の力強さにあやかったり、野菜不足を補う意味もあったのでしょうか。現在の1月7日の「七草粥」は、おせち料理で疲れた胃をいたわる意味を持たせたりもしているようです。
  • 次に、江戸時代の文献に載っている「七草粥」などについて見てみましょう。
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